『主の祈り 説教と黙想』
及川信
一麦出版社
\1800+
2015.5.
主の祈りについてのメッセージの連載を始めるにあたり、一人のひとのまとまった説教集を探していたところ、本書を見出した。私の好きな説教者の一人である。どんなふうに読み解くのは、ある程度知っているだけに、愉しみにして読んだ。
期待に沿う内容だった。教会で語られた、ルカ伝の講解説教の中の「主の祈り」にまつわる部分を集めたものだが、話題が集約していて、本としても完成度が高い。出版前に大病を患ったことが、「あとがき」に記されている。辛く不安だったことだろうと思うが、そこでまた改めて「主の祈り」について思うことを一言述べている。この主なる神こそが、命を与えられた方なのだ。読者も、そのあたりを自分への戒めや励ましとして、読ませて戴きたいと願う。
最初は「序論」のように、説教そのものではない紹介めいたものが載せられている。これが読むのに辛い。「父よ」と呼ぶ対象を現実にもてない子の立場の人が世の中にいることに触れられている。父に見捨てられた立場の子にとり、「父」という言葉を聞くだけでも、絶望したくなるのである。この点は、私も時折気遣っていた。だから神を「父」と呼ぶとき、それに同意できない苦しさというものを、教会はどのように受け止めることができるのか、悩んでいる。神は父なのか、母ではないのか、というと、また別の方向に進むかもしれないが、「主の祈り」においても、「父よ」と呼ぶところから入る以上、その言葉を口にできない人のことを、蔑ろにすることはできないのである。
著者の立場からすると、体験的に、「今の自分の存在、その状況、心境を知っている存在がいなければ、そして共に生きてくれなければ、人は生きていけない」ことを知ったという。その存在と「出会う」ことがなければ、なんらかの「孤児」となってしまうのだろう、としている。そして、イエスは、十字架に架かるときに、それさえも味わってくださったのだ。
主の祈りは、教会で定められたものとして、「ディダケー」と呼ばれる文書に記されたものが標準となっている。これに、「国と力と栄えとは……」が付せられて、いまに伝わる教会での祈りとなっている。が、概ねマタイ伝にあるものが標準となっている。そこへこの説教集は、ルカ伝の講解説教である。ルカ伝に掲載されている「主の祈り」は、マタイ伝のよりもぐっと短い。明らかに欠落している内容もある。だが、そこは「主の祈り」であるから、著者はじょうずに、標準的なマタイ伝の祈りと並行しながら、この連続講解説教を営んでいる。
但し、導入が少し異なる。ルカ伝では、弟子たちの側から「祈りを教えてください」とイエスに願い、答える形になっている。この連続説教は、このことを初回としている。これはよい着眼点である。「主の祈り」の本文だけを取り上げて、その意味を解説する、というのが一般的であろうものを、それをイエスが告げた背景を押さえることによって、その祈りの意義というものが違ってくると理解したのだ。
その後の解説については、直に触れて戴くとよいかと思うが、聖書の言葉を説くのはもちろんのこと、社会的な眼差しも伴っていると言える。いわゆる「適用」とでも言うのであろうか、聖書内の問題に留めず、私たちが生きる世界との関わりが示されるところがいい。また、他の訳との比較や、原典の言葉にも着目する。ある意味で、現行の訳では、原文のニュアンスを正しく伝えていないのではないか、と挑戦する場面もある。もちろんそれは一つの説に過ぎないにせよ、文脈を思うと、その理解はなるほどと受け止める価値のあるものがある。これは勉強になるし、そこから何を受け取るかということも違ってくる。
特に著者は、「神との出会い」を重んじる人である。私たちが聖書を、研究書として読むことで終わりであってはならない。聖書を偶像のように扱ってもならない。聖書は、私が、神と出会う場なのである。私が聖書の中に描かれていることを痛切に感じ、描かれている人物の体験を共有することなくしては、聖書は聖書でなくなってしまう。文献かまとめの書であるかのように眺めても、そこに命はない。また、そういう程度の読み方をするような者が、たとえ大教会の壇上で語ろうとも、そこには命はない。しかし、著者は、話し方として雄弁ではないのではあるが、このように読む形でその説教が提供されたとき、そこに非常に熱いもの、深いものを、私は覚えるのである。もちろん聖書の他の箇所からも縦横に引用し、関連すると思われることを挙げて立体的にぶつけてくる。そして、目を覚まさせるような観点をもたらしてくれる。私にとって、よい指針を与えてくれることは確かである。
なお、本書は古書として購入した。先に読んだ人は、鉛筆で傍線を引いたり言葉を囲んだり、なかなか熱心に勉強をしている。メモもしているところを見ると、教会で読書会をしたのかもしれない。ただ残念なのは、それが最初の50頁ほどで終わっていることである。私としてはもちろん、きれいなままの本がよいのであるが、この本が、前所有者にとって、全部学んだものではなかった、ということが残念だと言ったのである。初めの熱心さが、最後まで届かなかった。本書は、最後まで、教えられることの多い良い本であった。聖書の読み方にしても、また神と出会う体験を導くという点でも、うれしい内容であったことを宣伝しておく。

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