本

『主の祈り キリスト教の小さな学校』

ホンとの本

『主の祈り キリスト教の小さな学校』
福田正俊
日本基督教団出版局
\1500+
1979.12.

 5年後に第三版が出ており、著者が1頁、そのために挨拶を入れている。そこでは特に「小さな学校」という言葉が副題に付いていることについて、説明を果たしている。「あとがき」にもその言葉について言及があるが、由来については明かされていない。恐らくあちこちから問われたのであろう。
 そこでは同時に、三版を重ねたことについて、「このいくらか硬い」書きものが、と驚いている。確かに、叙述は硬い。1969年の夏の修養会で語ったことを基に、その後しばらくして、雑誌に、主の祈りの講解を掲載した。概ねそれがここにまとめられており、「説教」とはまた違い、文法的な点への言及や神学者などの解釈の紹介と検討も随所に置かれ、全部で49付けられている「注」は、原典の指摘を初め、なかなか学術的にも価値のあるものとなつている。
 索引がないので残念ではあるが、非常に有用な知識や指摘が、随所にある。何か役立ちそうなことに出会ったら、フィルム附箋を貼るなどしておくとよいだろうと思う。それほどに、きっとみた見返す機会があるはずだ。私は黄色いラインも引いている。
 まず「序説」と題して、「主の祈り」全体の意義を掲げている。それは、著者のそれに対する姿勢でもある。「主の祈り」とは、「天の高きを窮め、地上の人間の尊さと窮迫とを見きわめた主が与えたもう祈り」である、としている。
 続いて「構造」を明らかにする。全体が大きく二つに分かれ、またその順序にも意味がある、とする。さらに、今日神の欠如ということに、この世の問題があるとしているが、私は、それはキリスト教会が、この祈りがもたらす神の御名への情熱を欠いていることだ、と言いたいのではないか、と捉えたい。
 この「構造」はわずか7頁である。だが、改めて振り返ると、この中になんと多くの指摘と、「主の祈り」の意義が深く示されていることだろうと驚くばかりである。
 こうして、全部で七つの章に分け、一つひとつの祈りを説いてゆく。七つとあるが、最初の一つは神への呼びかけ「天にいますわれらの父よ」である。  その語に一つひとつ立ち止まり、自由に散策するような綴り方がそれからなされてゆく。たとえば「あがめる」という語に出会うと、その「あがめる」と訳された言葉が、「聖とする」という意味の言葉であることを告げ、「聖」とは何かについて明らかにしてゆくのである。
 そしてこの項目では、全体を7つに区切り、読者が学ぶべきことを捉えやすいように配慮している。なにげないかもしれないが、この区切りは重要である。どこからどこまでが、一定のことを述べているか、それが曖昧だと、著者が伝えたかったことは何か、クリアにならないことがあるのだ。
 御名が崇められますように。いよいよ祈りが始まるが、そこには出エジプト記で神が神の御名を明らかにした場面をもってくる。「私は有って有る者」というのがその御名だというのであるが、そこには神の主権と自由が示されているという。またそれは、「本来神に属するものを神自身に帰する」という意味でもあるという。カルヴァンの見解であるが、きちんとそのように言及しつつ、多くの神学者や時に哲学者の声も添えつつ、誤った捉え方をしないように、様々な角度から話を組み立ててゆくのである。
 過去の文献を調査しようとしているわけではない。著者は、現代思想の問題も常に意識している。近代の人間が陥っている問題も時に指摘するありさまは、なるほど「説教」のスタイルにもなっているように思う。私は特に「御国がきますように」にある、「宿命論からの解放」という辺りに、深く耳を傾けた者である。「歴史の将来に希望を託し、この文化的希望に生の価値と生き甲斐とを見出す」ということが、進歩を信じる近代人にとって、「未来に対する信仰」でもあったとしながらも、そのような「世俗化」で事は済まない、と言う。「ヒューマニズムの信仰」や「合理主義の信仰」、また「政治革命を絶対化する信条」では、行き詰まることをはっきりと知らせるのである。
 神の「みこころ」に言い及ぶときには、「説教」に対する痛い指摘がある。「われわれは、意識的にか・無意識にか、聖書の主題と人間の知慧とを都合よく適当に使い分け、その結果、福音を不純な合金のようなものに仕あげる危険はないであろうか」と問うのである。それは、説教を語る自身への問いでもあった。自分自身が「どんなに悪しき僕としてふるまう危険にさらされていることであろうか」という反省にも現れている。
 著者の基本的なスタンスは、「日ごとの食物」の祈りのところにあった言葉を用いると、「人間は生物的存在であるにとどまらず、創造者から呼び覚され、呼びかけられ、それに対して自由に答え、自由に従って生きねばならない存在であり、このように神と相対して生きることによって、はじめて人間は人間となるのである」という。こうした意味のことは、事ある毎に述べていたように思う。
 「負債のある者を」という赦しのところでは、イエス・キリストの姿を私たちにしきりに想起させる。それはそうだろう。それなしには、罪の赦しに関する祈りはありえないからである。そして最後には「試みに会わせないで」という祈りだが、原文の調子が、日本語よりももっと強いことを読者に提示する。神がわれわれを「誘惑のなかにみちびきこみたまわないように」と訳すことができるのだという。そのためには、神を真っ直ぐに見つめ上げる寄り他にない。神から視線を逸らすとき、悪の力に私たちは捉えられてしまうことだろう。この「悪」の概念は哲学的にも扱い方が難しいものだが、悪の非存在と悪の存在とを、決して哲学的吟味に耐えられる叙述ではないにしても、信仰の実践的な営みの中では十分にその天を明らかにしているところがあった。さすがの腕前である。
 私たちは、神が見えなくなる誘惑に晒されている。それは、如何にもの誘惑の姿を取るものではない。いい気になっているうちに、神から視線が外れていってしまうのだ。その意味では、自分で気づかないうちに「的外れ」になっているということに外ならず、私たちは本書から、知的な手ほどきを受けると共に、自分の生き方、自分の命というものについて、よい導きを得ることになるだろうことを、期待できると思うのである。
 なお、信濃町教会といえば、高倉徳太郎が創立したことで有名である。高倉は、植村正久の弟子であった。高倉の死後、教会を受け継いだのが、この著者である。信濃町教会が建ってちょうど百年目に、私は本書に触れた。なんとも感慨深い出会いである。




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