『終末論』
大木英夫
紀伊國屋新書A-65
\400
1972.5.
半世紀を経て私の手に届いた本は、紙自体は古びていたものの、極めて美しいと言ってよい本だった。大木英夫氏の文章を他の本で見て、その終末論についての熱意と、哲学的な背景を含めた考察に、もう少し深く触れてみたいと思って、本を探したのだ。紀伊國屋新書なるものは、いま復刻されたものが一部あるようだが、私も記憶にないくらい、目に留らないシリーズだった。
さて、本書の論調はけっこう硬い。目次を概観してみと、先ず「歴史的世界観の成立」の章から始まり、「世界史」というものがあって然るべきものではなく、「世界史」という捉え方をすること自体が、特殊な背景をもつものであることを読者に知らせる。ヴェーバーとパネンベルク、そしてニーバーを三つの代表として、「歴史」を違ったフィールドで見る眼差しを知る。
次は「終末論的現実」の章で、いよいよ終末論という考え方が明らかにされる。世界は終わりを迎えるというところに目がいくとき、宗教的にはメシアにズムが期待される。こうなると、聖書の捉え方が中心になってくるが、その中で終末論がどう捉えられてきたか、を示す。中世までとその後とでの区切りをはっきりさせるべきである。
そして近代。カントに始まる歴史認識が、歴史というものに対する思想を次々と開花させる。「二十世紀における終末論――研究の概観」と題して、ここまでにかかったのと同じくらいの分量で、やはり新約聖書の神学を舞台に、終末論の様々な形が並べられてゆく。人物名だけを拾っても、カント、リッチル、ヴァイス、シュヴァイツァー、バルト、アルトハウス、ティリッヒ、ドッド、ブルトマン、そしてクルマンである。それぞれ、前者の思想を克服してゆく過程が流れてゆくような感じに描かれており、まるでこの流れこそが、「歴史」というものだぞ、というようなふうにも思われた。
最後は「終末論と現代」と題して、たとえば歴史哲学という観点から、ヘーゲル、マルクス、キルケゴールという哲学を拾うが、私には、「自由」概念を扱った「復活」理解が非常に面白かった。頁数は少ない箇所なのだが、印象的な指摘があると感じたのである。たとえば「人間が自由な存在であるということは、人間が死をも克服し得るということによってのみ確立される命題なのである」(p202)というように、「死からの自由」(p203)という言葉が伝わるように、迫ってくるのである。「復活が生起したということは、人間存在における決定的な出エジプトである」(p204)というところに、「人間は究極的自由を経験する」(p204)ことを見いだしてゆく。「死を克服し復活を信じることは、救済の経験にほかならない」(p205)のである。これらに至らないことを「罪」とし、その「罪」こそが人間に死をもたらす、という説明も、簡潔で鋭い。こうして、「自由論は、終末論の人間学的構造であり、終末論は自由論の歴史的構造である。自由なる存在としての人間は、終末論的構造を持っている」(p206)とまとめられるのである。
キリストの再臨とか最後の審判とかいうところに、どうしても「終末論」は関心が向きがちである。確かにそれは終末論の重要な注目点であるはずである。しかし、そのためにも、実のところ「復活」ということが、すべての前提であり、条件にもなる。それは単なる教義であるのでもなく、証明すべき対象でもない。著者は叫ぶように書く。「この変動する現代世界に必要なことは、「神の国」のシンボルによって暗示される世界的な共同体の実現である。現代の社会変化の中に、われわれは共同体の深い欲求を感受する。その共同体は、自然的きづなによって結び合わされたものではなく、超自然的な<愛>のきづなによって結び合わせられた人類共同体である。」(p242) こうして、聖書の求めるところは、「復活」を信じる、いまここにいる私たちの生き方であることだということを伝えようとする。
終末論は、絶対に他人事ではないのである。

た
か
ぱ
ん
ワ
イ
ド