『手段からの解放』
國分功一郎
新潮新書
\880+
2025.1.
スピノザについて、中動態について、いろいろ興味深いことを教えてくれた著者である。前作として、同じ新潮新書から、『目的への抵抗』が出ていた。そして今度は『手段からの解放』である。これらは「シリーズ哲学講話」と題され、大学での講義からの内容が含まれているが、それにしても見事な対比である。
優れていると思うのは、最初に構造や原理があって、そこから現実への適応を説明するといった、ありがちな要素を取り払い、身近にありふれたことの不思議を問うことから始め、それが古典的な考えの枠組みと結びつくことへと展開する点である。
今回は、「楽しむ」ということが問いの発端だった。倫理的に、楽しみに興じてはいけない、といった処世訓めいた思想は、当然いくらでもある。だが、人間が「楽しむ」という言葉を使うとき、そもそもそれは何を意味するのか、これを正面切って問うた哲学や倫理学が、どうにも見当たらないというのだ。著者は、これまでもそれがどうにも煮え切らずに、問い始めていた。それが今回は、カントを軸にして、その「楽しみ」がむしろ現代の危機を指摘するものではないか、というところにまで思索を深めてゆこうとするのであった。
まず宣言する。「楽しむことには、人間の生に喜びを与えるだけでなく、おかしくなってしまったこの社会を変えていく力があると、真剣にそう考えてきた」のだ、と。
さて、問いの発端は、「嗜好品」という言葉であった。これに見合う西欧語が見当たらなかったというのだ。ただ、ドイツ語にそれがあり、むしろ日本語の「嗜好品」という語は、ドイツ語に由来するようなのだ。このとき、ドイツ語で「嗜好品」についてちゃんと論じたのが、カントであるということで、カント一本で本書のテーマを貫こうとするのである。
もちろん、そうなると題材は『判断力批判』である。カントによれば、「快の対象は四つしかない」と言い、「快適なもの」「美しいもの」「崇高なもの」、そして「(端的に)善いもの」が挙げられている。それぞれ、を能力と次元という捉え方で分類すると、感情能力の低次のもの・感情能力の高次のもの・同じく感情能力の高次のもの・欲求能力の高次のもの、であるらしいのだが、一つ欠けた、欲求能力の低次のものがカントによっては正面から論じられていないのだそうだ。カントはこれを見落としているのではない。それは倫理的な問題とは認められないからである。そして、倫理の問題には当たらないここに、本書の核がある。しかも著者の考察によると、「我々の日常の振る舞いのほとんどは」、そこに位置づけられるのであるというのだ。
これでは、何をいま私が言っているのか、お分かりにはなれないだろう。もちろんそうだ。だからこそ、この200頁余りの新書が必要なのである。お読み戴くことが必要だろう。私はこの本をお読み戴くための橋渡しをしているに過ぎない。
だが察しのよい方はお気づきであろう。タイトルの「手段」という点が、正にこの快の対象たるに値する四つのものが収まらない、その「低次の欲求能力」に関わるところが、本書の指摘したいことなのである。これを現代人が考えねばならない、気づかねばならない、というのが言いたいことであって、言うなれば、ここだけが解ればよい、というところなのである。
それは、生存という目的のために、何事でも手段にしようとする働きであり、それを正当化する思想である。生きるためにはそれをするのが「よい」、と私たちは普通に言葉を使う。しかし、カントが倫理学の領域で捉える「よい」とそれとは全く異なる。これの混同が、私たちの論議の中でごちゃ混ぜになり、話し合いを紛糾させているのではないか。著者はそのような言い方はしていないが、私はそう捉えた。
恐らく人間には、何故だか説明ができるわけではないが、元来「インストール」された、「よい」ことへの思いや理解がある。しかし、著者が前作などでも警告した、「消費」というつくられた欲望が、まるで「よい」こととして選択したかのように錯覚されているところに、それに関する危険が伴っている。さも当たり前のように「消費」を美徳のようにしているかもしれないけれども、それは元来「よい」と判断する領域にないものを、「よい」価値に基づくものだと思わされた中で、ひたすら対象を手段として扱うことに仕向けられた世界での出来事でしかない。言うなれば、人は「よい」と詐称されたものにより、知らず識らずのうちに、思想を操られているのである。
それは、カントが警告した、人を「手段として扱ってはならない」という定言命法が、尊重されていない場である。さらに言えば、それが崩されてしまう業である。私は、そのような考えを、読むことにより与えられた。
なお、本書は二つの章から成るが、ユニークな構成になっている。どちらも基本は同じ内容なのだという。最初は論文。後のは東大での講話の記録を基にしているのだという。その意味では、実のところ半分あれば著者の主張は分かるのではあるが、そこは目的の異なる文章である、それぞれに味があり、強調点も異なる。論文には論文なりの型式やモットーがある。講話には講話特有の、聞かせどころというものがある。言えることを言うのが論文であり、言いたいことを言うのが講話である、と言ってもよいだろう。私はどちらもあってよかった。
著者は、本の最後のところで、熱く願いを語っているところがある。社会問題にも踏み込んで、身体的な危機にも、また精神的な危機にも言及した、ぜひ読んだ者たちがその捉え方をここから運び出して、広く世間に伝えねばならない事柄であると思う。操られた依存の心身から免れるために、「人とのつながり」を必要とすること、また堂々と「楽しむ」ことを尊重すること、そのようなことが告げられているのである。また、それと共に、著者の「哲学観」も簡潔に明かされている。それを引用してこの場を閉じることとしよう。それは「哲学の力」のことである。
「哲学的な思惟は、或る対象を前にした時、当然そう考えるべきであるという道筋を、少なくとも示すことはできる。」

た
か
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