本

『昭和が生んだ日本語』

ホンとの本

『昭和が生んだ日本語』
遠藤織枝
大修館書店
\1575
2012.6.

 サブタイトルの「戦前戦中の庶民のことば」が、この本の必要な紹介を簡潔になし終えている。もちろんある程度広い範囲で調査はしているが、1930年あたりから1945年ほどの十五年の戦争時代に使われていた日本語について考察している。いや、考察というよりも、これは調査である。実に地味な、息の長い調査であり、当時の新聞や雑誌、そして脚本の中にある日本語の中から、語彙や言い回し、かなづかいに至るまで、現代との違いを探ろうとしている。骨の折れる作業である。
 そう。思い込みや印象でなく、非常に実証的な試みがここにある。おぼろげな記憶によって、あの言葉を使っていたとかいないとか、そういうものではない。事実そこにある確かな文献を頼りに、言葉のありやなしや、そしてその意味は如何に、と調査をしているのだ。
 それが何を意味しているのか、その分析は、むしろ読者に任せているのかもしれない。もちろん著者も一定の見解を挙げているが、それを押し通すというよりも、まるで調査した結果を示して楽しんでいるかのような印象すら与えるほど、これは案外貴重な資料であるということもできそうなのである。
 つかみもいい。「なでしこ」とくれば、今や女子サッカーの代名詞。だが、その用法を繙けば、なんと普通に男性のことも大和撫子と表している現実に出合うという。それから、皇室敬称と一般の敬称について、それが男性と女性とにおいてどう違うかなど、興味深い。家族間の言葉でも、ある意味で今と同じなのかもしれないが、都会でなく田舎では意外とラフなのである。
 それから、広告の宣伝文を挙げる。昔の広告は、現代よりも文章的である。視覚的でなく、文が多い。現代的感覚からすれば詐欺同然の表現もあるが、まあそれは今でもなお同様であろう。痩せますとか幸運が舞い込むとか、依然として同じようなまやかしがまかり通っているのであるから。
 戦争用語の登場や意味の変遷も興味深い。はっきりと、ある時代にその語が登場したということが、当時の辞典なども参照しながら明らかにされるので、ほぼどこから一般的になったかが推測できる。作られた軍隊的用語も多く、私たちはそれを引き継いでいる様子が窺い知られるのである。そしてこのことでこの本は結んでいるから、余韻がそこにある。
 ただ、私が極めて明瞭であるという印象を受けたことは、三分のにほどのところから始まる、「ニホン」と「ニッポン」の違いである。これは今でも問題である。正式にはどちらなのか、しかし慣用的にはどうなっているか、など興味は尽きない。なにせ、国名である。政治家たちもどう使っているのか、果たしてひととおりにルールが決まっているのだろうか。これが戦前からの文献調査においてはっきりする。1933年まで、「ニッポン」は見られないのだが、1934年から現れ始め、しだいに席巻していく。いや、その翌年からは、殆ど「ニホン」が見られなくなる。当時は、ルビが振られているので、この違いがはっきりするのだ。戦時中は「ニッポン」のほうが威勢がよいのか、力強い語として使われていく。「日本画」さえ、「ニッポンが」と呼ばれているのだ。著者は、戦争中と平和時との違いとしてそれを示す。背景の理由を決めつけようとはしていない。ただ事実として、そのようにルビが付いている、という事実を私たちに見せる。この歴然とした事実に私は驚いた。
 その人の、言語についての知識や、関心ある分野によっては、もっといろいろな点で、言葉の使われ方の違いに驚くことがあるだろう。その意味でも、まるで辞書のように、使う人次第で多くの宝物が眠っている、そんな本であるように思えた。




Takapan
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