『勝利者キリスト』
小川治郎
教文館
\2000+
1979.8.
もう半世紀ほど前の本として手に取ったが、326頁のイラストひとつない、文字だけの本が2000円というのは、当時としてはかなり高価だったのではないだろうか。本が高いのは2026年に限ったことではないようだ。
キリスト教の書物は、日本では販売数が多数見込めないという背景がある。本書のような一牧師の説教集となると、よほどその人を知った人でなければ手にすることがあるまい。まして購入するとなると、またハードルが上がるだろう。
古い本なので、ネットで見つけて取り寄せたのだが、先ず開いた見返しのところに、「進呈 著うゃ 小川治郎」と手書きの文字が見えた。知人にこのように配る習慣があればなおさら、販売数はどうだろうかと案ずる。知人こそ、購入すればよいのではないか。牧師や神学者が、仲間内に本を贈り合う文化には、疑問を呈するばかりである。そうでもしないと誰も読んでくれない、ということなのだろうか。
いやいや、それはただの偏見なのだろうから、私の見方は間違っているに違いない。ただ、何千円もする本を、仲間の著者から戴いた、という報告をSNSで毎回知らせる方がいるが、そんな高い本が買えない庶民の信徒の目から見ると、羨ましいというか、決していい気持ちはしない。購入されたのなら構わないのだが、ただでもらったものを見せびらかされているようにしか見えないのである。
妙な前置きが長くなったが、この著者である牧師には関係のない話であった。失礼つかまつりました。説教集としては前著『先立ちたもうキリスト』も拝読した。それに続いての説教集である。その信仰はとても素直で、聖書に忠実に従おうとする姿勢を、とても安心して読み進めることができる。穿った見方をするのでもないし、ただ感情を煽るようなものでもなく、落ち着いた形で説教をされる。実際の礼拝説教でもこのような語りであっただろうと思うと、こうした説教により信仰を育てられた信徒は幸せだろうと思う。
牧師独自の色を濃くしている、というようなこともない。しかし個性がないか、というとそんなこともない。非常に穏当な、そして信仰を育むのに相応しい語りである。
ここにあるのは、講解説教である。連続して、聖書の中のひとつの書、あるいは一定の部分を辿ってゆく。聖書の解説のように見えるところもあるが、学問的な解説ではなく、それを現代の私たちがどのように読み、自分の信仰生活に活かすとよいのか、絶えず気にして説いていることがよく分かる。
まずは創世記で、第9章辺りまでの説教が収められている。それから主の祈りの一つひとつの節を丁寧に辿る。ピリピ書講解は、一番力がこもっているように見受けられた。ここに、信仰生活を支えるエッセンスがたくさん見出されることであろう。最後には黙示録であるが、そこに描かれた過去と現在と未来という構図に少し倣うかのように、黙示録全体を三つの部分に分け、手早く伝えている。もちろん一つひとつ細かく論じてゆくというのは素晴らしい講解説教であるわけだが、このように大まかな枠の中で3回程度でまとめてしまうと、案外黙示録全体の風景がよく見えてくる。そうして、黙示録全体を「祝福の書」として締め括るのは、まことに気持ちが良い。説教を聞く者は、こうした励ましを待っている。そしてそれがただの看板文句というだけでなく、そのことを証拠立てるようにたっぷりと説教が語られた後に「祝福」だと示されることで、胸にもストンと落ちてくるというものである。
本書はそのように、とても安心して聞ける説教が満載である。神への信頼に満ち、神の言葉をいまここにいる私たちが、その言葉か告げられる正に現在であるという意識で受け止めることにより、聖書の言葉は命を吹き込むであろうし、私たちもまた、生き生きとそれを聞き、歩み始めることができるというものだ。ひとを生かす言葉、それが語られるべき聖書だと私は思うのだが、決して派手ではない著者の説教は、それを忠実に果たしていると思われる。丁寧に読めば、著者が心熱く突きつけている主張のようなものが、確実に分かるような書き方がなされている。実際に語られているときには、声の調子や大きさなどで、それがもっと明確に伝わっていたものだろう。
それでいて、現代社会や文明に対する批判や警告も、時にはっきりと示されていて、私たちに問題意識をもたせるにも十分である。それも、誰かのせいでそうなったというのではなく、私たちもその当事者であること、私たちがその責任を担っていることを感じさせるような言い方がなされている。
決してスタンドプレーはないと思うが、この説教者は、名選手であると思う。

た
か
ぱ
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ワ
イ
ド