本

『小学生の学力は「新聞」で伸びる!』

ホンとの本

『小学生の学力は「新聞」で伸びる!』
樋口裕一
大和書房
\1470
2011.9.

 新聞社関係のアピール本かと思ったが、どうやらそうではないらしい。作文教室の塾長だという。作文という観点から、新聞の効用を捉え、それを読むということで、学力全体へと及ぶことを主張する本である。
 小学生新聞というものがあり、大人から見ても興味深いものであるが、そうでなくて、一般紙でよいという。もとより、それを全部理解するなどという暴挙を提案しているのではない。その中のどこかにでも親しみをもち、自分の居場所のようなものを見いだし、それに親しむことで様々な社会の現実と触れあうことを含めて、語彙力や社会的理解の増進などに、悉く新聞が役立つのだ、ということを言おうとしている。
 そのための具体的な方策についての紹介は、頭が下がるほど丁寧で、多様である。様々な経験も重なって、深く考えられ、また検討された末に、ここまで本にまとめられたように見える。子ども心を掴むような親子のやりとりも紹介されており、使える場面も多いこどたろうと思う。しかしまた、逆に子どもがこの本の予想とは違う反応を示すことも大いにあり得るだろうと思うので、親としては気長に子どもに勧めるようにすべきだろう。
 だが何よりも大切なのは、親自身が新聞というものにどこまで親しんでいるか、ということも問われているだろう。大人がテレビ欄と四コママンガ、せいぜいスポーツ欄くらい、というような読み方しかしていないのに、子どもが新聞を活用して社会を学び、学力が増した、などという夢のような情景を想像してはならないだろう。親自身が学んでいないところに、子どもが学ぶ喜びを感じるはずはない、と言ってもよいほどだろうだからだ。
 それでも、親が読めば子どもも読むというものでもない。子どもにはすることがたくさんある。その中で、訳の分からない新聞になじむためには、正直、よほどのきっかけや楽しみがなければ、無理なのだ。親子で、投書欄を利用しての意見の交流などが提案されているが、そもそもそれほどに親と子とがコミュニケーションを日常的にできる環境にあれば、新聞など用いずとも、社会の事柄についても会話を施す機会が十分にあったのではないだろうか。新聞という題材は、毎日新しいものが届く理屈なので、素材に困らないということもあるのだろうが、さて、この本に描かれたように、子どもへの誘いかけがうまくいくものかどうか。
 よい知恵がたくさんあるし、社会勉強としても有意義になるであろうことが予想される。新聞は、たしかによいものだ。しかし、私たち大人とて、英字新聞を毎日少しずつ読み続けることに耐えられるかどうかという程度のことを考えても分かるように、子どもにとり新聞は、意味の分からない言葉ばかりで綴られている、文字に包まれた王国である。そう親しみをもてるものではないし、それを続けて実行していくというのは、並大抵の努力ではできないことのように思われる。本に書かれてあることはよい知恵であるのだが、その実現性はどの程度のものであるのか、疑わしい。
 そこで私の個人的見解であるが、大学生あたりに、この本にあることを実行してもらうのはどうか、と思う。大学生がまた、新聞など読まないことが当たり前になっている可能性がある。読み方を知らないというのもありがちだと思う。その大学生にとり、この本にあるような知恵で以て、新聞に近づいてもらうために、有効ではないかと思うのだ。その意味で、タイトルの「小学生の」の部分は、もっと年齢層を上げてちょうどよいのではないかと思われる。
 それから、最後になるが、この本の動機の致命的な欠点がひとつはっきりしているので、触れてみたい。それは、「さまざまなデータや取り組みからもわかりように、新聞を読まない子より、新聞を読む子のほうがいい成績がとれる、というのは明らかです。言い換えれば、子どもにうまく新聞を読ませることができる親が、わが子を頭のいい子にしているのです」(18頁)という、最初の節の末尾である。言い換えたところに、論理のミスがあるのだ。前半は、いい成績をとっている子と新聞を読む子との相関関係があることを指摘しているのだが、言い換えたときには、新聞を読むことが原因で、頭がよくなる結論を招く、と断定している。これは、どちらが原因であるか、それを恣意的に速断していることになる。いい成績と頭のいいことが同一であるかどうか、それさえも問題なのであるが、言い換えたときに、勝手に新聞を読めば成績が上がるという因果関係に結びつけてしまっているのは、論理のすり替えである。むしろ普通に考えて、成績が良い子だからこそ、新聞を読むことができるのではないだろうか。世の中の大人を見渡してみよう。英字新聞を読んだから英語ができるようになった大人よりも、英語がある程度できるようになったから英字新聞を読むようになった大人のほうが、圧倒的に多くないだろうか。成績を上げるという目的が、新聞を読むという原因によって達成できるかのように主張しているのは、詐欺的商法の手法と同じではないだろうか。相関関係を、一方的な因果関係の方向の中で決めつけることはできないはずなのである。
 新聞を読むことの有用性について、私は何も反対するつもりはない。世の中を知るために小学生に読んでもらいたいと強く願っている。だが、それを、頭のいい、あるいは成績を上げることのための手段として利用するという方向性については、私は賛成しない。また、そのような根拠のない論法でこの本がどんどん前へ出て行くということについては、懸念を示さざるを得ないものである。それとも逆説的に、この本のそのようなからくり、あるいは恣意性を見抜くことができるような、本当に「頭のいい子」に育てることができるように、新聞は利用できる、などと言いたいのだろうか。まさか。




Takapan
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