本

『小説の自由』

ホンとの本

『小説の自由』
保坂和志
新潮社
\1785
2005.6

 二年ほど前に、『書きあぐねている人のための小説入門』という本を出しており、それについても私はこのサイトで取り上げている。
 小説家とか小説の理論とかいう問題は、分かりそうで分からない。文筆業者の世界もまた、特殊な専門世界のように見える。
 だが、著者はまた、小説をそのようなテクニック的な、あるいは特殊に世界のものに閉じこめようとは考えていない。著者にとって、「考える」ということが、小説という姿をとるらしいのだ。いや、小説というものは「考える」ものだ、と明言している。
 その「考える」は、よくあるように、批評のようなものとは違う。それを一定の命題で処理しようとはしないで、まさに「考える」ことこそ小説の世界であるということで、大きな海原に船を漕ぎ出すような勢いで、この本が始まっていく。
 人の言いなりになることでいいのだろうか。それは、恰も自分で考えたような錯覚に陥りながら、「よくある」思考に実は倣っているだけ、という事態をも含む。たとえば、信仰など非科学的で無神論以外ありえない、と声高に主張する理論家がいたりするが、よくよく問うていけば、不用意に自分に都合のよいものをただ信じているだけという根拠に行き当たることがあるものだ。
 この本が言う「考える」というのは、それとは対極のものである。そこで、様々な方法でそのエッセンスをなんとか伝えようと、誠実に語り続けられていくものであるが、私がとにかく驚いたのは、この著者が、アウグスティヌスの『告白』に多大な頁を割き、そこに小説の神髄を見出していることである。
 しばしばそれは信仰の告白であり宗教的なものに過ぎないなどとも思われ、たんに歴史的な文学ではあるが、という目で見られるものに過ぎなかった。しかし、そこに人間の「考える」という根本が備わっている、と、様々に引用し、それに一定の解説を加えながら、小説とは何かを捉え、放とうとする試みが、ここにある。
 何のノウハウも教えてくれない。こうすればよいなどという方法論もない。だが、読者を、「考える」泉へと導いてくれるのは確かである。それは哲学でもあり、信仰の重要な要素でもあるように思われる。まさに「自由」という言葉のもつ、深遠さや解放性が、遊んでいるかのような、有意義な本である。




Takapan
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