『シンボルの哲学』
S.K.ランガー
塚本明子訳
岩波文庫
\1440+
2020.8.
最初は1942年の発行だという。芸術の哲学と呼ぶに相応しいものとして、古典的名著であるものだ。テーマはタイトルの通り「シンボル」。それが、芸術の方面に向かって突き進む。非常に厚い議論が続き、文庫ではあるが、注釈を含めて550頁ほどの論文となっている。さらにその後40頁ほどの訳者の「解説」と文献リストが伴い、索引が30頁ほど付いている。索引があるだけで、私の評価は上がる。しかも文庫である。読み返すため、また必要に応じて調べるため、索引というものは、この手の本には不可欠であると考えているからだ。しかも、それを含めるだけの頁数を惜しむものが多いからだ。
訳の原典は、1957年の第3版である。熟考の15年を経てのものであるだけに、よけいに厚みも増す。
ギリシア哲学とキリスト教哲学とを背景に、心理学も交えながら、シンボルの意味を問うてゆく。ポイントは、「サイン」と「シンボル」の関係である。記号論を交えながら、そもそも「言語」とは何かということを検討する。その辺りから、宗教的なシンボルの形を細かく考察すると、神話という領域に留まり、そこから音楽へと範囲を拡げる。この音楽という分野は、扱いが決して簡単ではない。時にやや独断的かと思えるほどの音楽の理解を示しながらも、民族や歴史の中での扱いを比較対照しながら、議論は膨らんでゆく。そこから、芸術一般へと深まってゆく思考は、どこか音楽の問題に引っかかりをもちながらも、本書の核心へと深まってゆく。
最後には、こうした過程を踏まえた形で、振り返るようにしながら、現代の人間の不安定な情況を暴くように語る。かつて宗教なり芸術なり、人をまとめその精神をつなぐような場があったのではあるが、そういう信頼を寄せるものがなくなった時代を認めざるを得ないのだ。果たして精神の拠り所が、私たちにはあるのだろうか。否、それが危機にある。それは、自由さえも見つからないでいることにもなる、と見なした方がよい。哲学もまた、それを導くような力を失っているのだ。
こうして「シンボル」という概念を軸に展開してきたように見える本書ではあるが、原題はその語が入るものではなく、「新しい基調の哲学」という、地味な色を呈している。そこに潜むベースは、「意味」という概念にあるようだ。
訳者による「解説」に、ひとつの注目点がはっきり述べられているのでご紹介する。
「彼女の本書でのポイントは対象の個々の存在をそれと知らせる記号(サイン、シグナル)としてではなく、対象の「存在」とは独立の意味あるいは趣意としての「シンボル」を、対象の抽象的な形式として把握するという、人間のする「変換」にあり、しかもその傾向が人間に「本性的に」、自然に備わっているものだというところにあります。」
後に著者の考えは、「心」の哲学とでもいうべきものに展開するという。科学と芸術が対立するのではない、それをつなぐような方向に進むのだそうだ。だが、本書の段階で提示された問題は、人類全般に訴えるものが確かにあった。見えないものを、なんとか感覚できるもの、思索できるものとして持ち出すこと、そうやって人間が互いに伝え合い、共有することのできるものとしてゆくこと、そこに思索の光を当てたのである。見えないものに目を注ぐという、宗教の現場において、シンボルは非常に多様に働いている。
キリスト教会でも、信仰の言葉はあるものの、容易に説明できないシンボルというものは多々ある。そもそも、「十字架」というシンボルが信ずる心にどのように映り、生き方に影響するのか、ということが、信仰の根幹であるはずなのに、一概には言えないものである。その解釈で分派が現れ、互いに相手を非難しさえする。シンボルとはどういうものであるのか、いくらかでも認識があれば、もしかすると避けることのできた争いというものもあるはずだ。古典と呼び得る価値のある本書の与える「鍵」を、私たちはもっと気にしてよいのではないか、と思わされた。

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