『砂の上の太陽』
遠藤周作
河出書房新社
\1800+
2023.11.
遠藤周作などと言っても、いまの若い世代に、どう響くか知れない。「誰?」というところではないか。本書は、「遠藤周作初期短編集」という冠を付けている。すでにどこかで発表されたものであって、決して新発見の作品というわけではない。だが、ここには、遠藤が芥川賞をとった次作をはじめ、その頃の新鮮な息吹が感じられるものが集められている。多少長いものもあれば、実に短いものもある。まとまりなく並んでいるようで、却ってそれがよいように思う。
本書は、遠藤周作生誕百年を記念して出版されたらしい。
そう、百歳なのだ。生きていれば。文学そのものはもちろん百年前のものではないが、世代的には、百年という時を数える勢いである。夏目漱石が若くして亡くなって数年後に生まれている。漱石が古典扱いされている現状をみると、遠藤もそうとうに昔の作家だということになりかねない。だが、テレビにもよく出演していたし、コマーシャルは益々認知度を上げた。
作品は、物議を醸したものもある。九州大学病院の事件を描いたものは、衝撃的だった。
さらに言うまでもなく、遠藤はカトリックの作家である。影響力の大きな作家が、カトリック信仰を表に出してくるとき、これもまた物議を醸す材料となる。というのは、キリストに対する、あまりにも独自の解釈を作品として提示したのだ。奇蹟を行うことができず、また母性を丸出しにしたような、イエス・キリストの姿を正面切って描いたのである。
一時は、カトリックの禁書扱いとなったそうだから、只事ではない。
しかしそれは、遠藤の中での、信仰のひとつの表明でもあった。むしろプロテスタントの自由主義神学からすれば、これはなかなか面白い信仰告白のように見えたかもしれない。実際そうだった。遠藤自身画、神について問う姿勢を、作品の中で貫いていたのだ。
この初期の作品についても、そうである。そもそも聖書に関係する地名やテーマがたくさん出てくる。それでいて、そこに模範的なクリスチャンが登場するわけでもない。また、信仰者が説教するようなこともない。やはりそこは、文学的な象徴があるのであって、メタファーを利かせた描き方によるストーリーである。
ハードカバーだが、ポイントも小さくなく、余白もほどよくつくられているため、読みやすい印象を与える。文学作品なので、そのストーリーをここで明らかにすることはしない。また、最後の「解題」には、一つひとつの作品のプロフィールや、その見所、意義のようなものも丁寧に解説されている。そこに、遠藤の信仰との関わりについても触れられているので、これはぜひ本作品を読んだ後に、味わって戴きたい。
メインタイトルとなった「砂の上の太陽」は、本書のラストを飾る。そして解題の後の「解説」において、今井真理氏によって最も長く言及されている。芥川賞受賞後の第一作であるが、当初は「地の塩」という題であったという。当時の常識として仕方のないことだが、差別的な用語や扱いが目立つために、当時の単行本の中に収録されることがなかったのだという。マタイ伝で特に有名なこの「地の塩」という言葉ではなく、「砂の上の太陽」とした理由は、もちろん明白ではないのだろうが、「解説」ではその背景をいろいろ提示している。
そのとき、2021年に発見された未発表の未完の戯曲「善人たち」のことが持ち出されている。そしてそれに関して、遠藤周作の造語である「善魔」という概念について説明されている。「自分以外の人間の痛みに無神経な人たち」のことだという。この「善魔」については、私は知らなかった。そして、非常に共感を覚えた。これこそ、私が遭遇している「自称クリスチャン」の姿である。もちろん、私もそうかもしれない。ただ、私はその存在がどういうものか、さしあたり認識している。そうならならないように、またそうなりかけた自分のことが分かるように、アンテナを張っている。うまく逃れているかどうかは自分では保証できないが、その「善魔」の問題は、私のひとつの大きなテーマであるにほかならない。
遠藤はいろいろな作品の中で、人間の中の「罪」を問い、また日本人が如何にしてこの信仰をもつことができるのか、問い続けている。そのときに、この「善魔」の概念は大きな意味をもつものである、とそこでは考えられている。この「砂の上の太陽」も、そのひとつなのである。
そこには、象徴的に「赤」が鏤められている。この「太陽」は、その「赤」とつながるのだろうか。日本において、キリストを信じる信仰というものが、果たして成り立つのか。必要なのか。根づくのであろうか。そのような遠藤のテーマが、芥川賞の「白い人」と共に、本作品に流れているというのであるから、本作品は、マイナーであるけれども、味わい深いものであると言えるに違いない。
そうだ。今度はぜひ「白い人」を読もう。

た
か
ぱ
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イ
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