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『救いはここに』

ホンとの本

『救いはここに』
加藤常昭/キリスト新聞社/\2800+/2009.4.

 ふと本棚で見つけて、宝物を見つけたような気持ちにさせられた。情けないことだが、この本をいつどのように手に入れたのか、全く記憶がない。次に読もう、と思って置いていたまま、すっかり忘れていたようなのだ。
 加藤常昭先生の本はいろいろ読んでいる。これも、手に入れてきっと嬉しかったに違いない。だが、もったいないような思いで一瞬いたら、そのままになってしまっていたらしい。
 なかなか厚い。450頁以上ある。そこに、20の説教が組み込まれている。当時すでに隠退牧師として、特定の教会の牧会をしているわけではなかったが、逆にそれ故に、各方面からお呼ばれがあり、礼拝説教に奔走する忙しさであったことだろうと思う。
 中程に「救いはここにある」と題された、1998年の珠玉の説教があるが、それを本書の表題として掲げたのであろう。それは、各地で語られた説教が、どれも救いへと導く祈りの中でのものだったことからも、適切なタイトルと考えられたからに違いない。
 加藤節、などと言うと失礼になるだろうが、聞いていて実に安心できる構成であり、口調であり、筋道である。いまは読んでいるはずなのに「聞いていて」と称したのは、そこから声が聞こえるかのように感じることに基づく。ラジオやその他のメディアで実際にお聞きした語りが心の中にあるものだから、それに合わせて、これらの活字が聞こえてくるというのは、嘘ではない。
 また、それは説教という場において、神の言葉が出来事となる、という、加藤先生に教えて戴いた説教たるものの真実が、確かにここに備わっているからである、とも言えよう。正に命の言葉がここにある。これを聞く者は耳のある者であり、その腹から生ける水が流れ出るであろう。そういった聖書の指摘が、ここに現実になることを、読者は経験するのではないかと思われる。
 それぞれの説教は、旧約と新約と、それぞれから1箇所ずつ、計2箇所から引かれた聖句を基にする。このスタイルにはどのような伝統があるか、私は知らない。だが私も、このような立体的な聖書の捉え方に惹かれ、多くの場合そういう仕方を継承している。それはやはり、加藤先生から学んだ、と言ってよいだろう。
 聖書の解説ではない。聖書の言葉を一つひとつ繙くのも、確かに大切なことである。聖書の言葉の意味を説明する、ということで、聞く者はまた自分で聖書をどのように読めばよいのかを知ることができる。しかし、それがすべてではない。むしろ、聖書解説を知りたいのであれば、解説書を見ればよいのであって、それが神を「礼拝」することとは、直接的には関係がないことになってしまうだろう。また、解説書を調べてそれを説明し、だから私たちも何々しましょう、と言えば説教になっているという勘違いもよく見受けられるが、それしかできない人は、神との交わりや救いといったものをご存じないのだろうと推測できる。
 ところが本書のような説教は、解説は必要に応じて行う。いまここで私たちが、伝えられたこの聖書をどのように受け取るか、まずそこに関心が向く。それは、説教という神の言葉の語りには、大きな目的があるからである。聞く者が救われることである。そのことにより、その者は神を礼拝することができるようになる。礼拝は、神と人とのコミュニケーションの中になされるわけだから、神とコミュニケーションできる魂であることが、礼拝の成立の前提となるはずなのである。
 だから、聖書解説ではダメなのである。人間同士が、神抜きで話し合い、説明し合って、なるほどなどと肯いている様子だと、そこに救いというものはない。自分の外部から、神が介入するという出来事が起こるのではないからである。
 本書には、副題が付いている。「説教によるキリストへの手引き」という文字が見える。普通なら、このような本の場合、「加藤常昭説教集」といったものが付せられているはずであろう。その方が、買う人にとっても親切である。ああ、この本は説教が集められているのだ、読みたいな、というような流れが書棚の前でできるのだ。しかし、「説教集」とはどこにも書いていない。この本は「手引き」なのである。「説教」を通じて、キリストへ、救いへ、と読む者を導くための案内なのである。あくまでもそこで「説教」は、道に過ぎない。道案内に過ぎない。その控えめな姿勢が、なんともカッコいい。
 帯には、小さな文字でだが、「半世紀以上にわたって、自らの存在を賭けて、神の言葉に仕え続けてきた著者が、さのまざまな時と場所で語った伝道説教の中から20編を厳選。」と書いてある。ここにかろうじて「説教」だと分かる情報が隠れている。こうしたこともあり、本書は実のところあまり知られていないのではないか、と危惧している。良い本だと思う。良い手引きである。
 だがまた、本書だけが救いの手引きなのではない。聖書が、それから聖書に呼び出されたキリスト者の一人ひとりが、手引きをするために、いまここにある。それを忘れることがあってはならないのである。




Takapan
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