本

『翠雨の人』

ホンとの本

『翠雨の人』
伊予原新
新潮社
\1800+
2025.7.

 NHKの夜のドラマで、「宙わたる教室」が評判になった。妻も夢中で見ていた。その原作は、2023年の発行であるが、本書はその2年後の2025年に出された。フィクションとはいえ、これは実在の人物の物語である。
 猿橋勝子。物語でも実名で登場する。一部、フィクションがあるそうだが、概ね事実に基づいているという。恐らく、プロローグとエピローグについては、脚色が強いのだろうが、猿橋勝子自身の生涯については、かなり事実に基づいているのではないか、と推測する。
 地球科学者として、女性研究者の魁として活躍し、60歳にて気象庁気象研究所を定年退官する際に集まった寄付金により、「女性科学者に明るい未来をの会」を設立。そうして産まれた「猿橋賞」は、女性科学者を表象するものとして、優れた女性科学者を支援している。
 運動が苦手だった幼い頃を経て、理科が好きだった勝子は、医師を志望する。その創設者に憧れて、東京女子医学専門学校を受験するが、その面接のとき、創設者に失望し、新設の帝国女子理学専門学校に入学する。勝子は医学とは別に、マリー・キュリーに対する憧れを抱いていた。その精神は、その後の勝子の研究人生を導き、支え続けることとなる。
 すでに日本は戦争への準備を始めていた。ヨーロッパも、戦争がやがて始まった。その実習で訪れた気象台で、三宅泰雄と出会う。地球化学という分野の先駆者であった。この出会いが、勝子の人生をほぼ決定づけることになる。
 この後、かなり専門的な解説も物語に混じり、内容的にはついてゆけなくなるのだが、その意義のようなものはよく伝わってきたし、物語の展開のために必要な知識は自然と与えられた。
 著者は、「宙わたる教室」からも窺えるように、科学畑の人である。地学部地球科学科を神戸大学で修めた後、東京大学大学院の博士課程を修了している。30歳を前にして、理学博士を与えられている。
 科学に関する叙述は適切である。その意味での不安はない。そして、科学者たちの振舞や考え方についても、確かな描写が続いてゆく。
 勝子の運命を変えたのは三宅との出会いであると言ったが、その研究について大きなターニングポイントになったのは、1954年の第五福龍丸の水爆被爆だった。海洋調査に取り組むが、放射能の影響を、海水から微量ながらも的確に調査したのである。そうして、平和運動のための、科学者としてできる最大の仕事をするようになる。
 ところがその海洋調査の結果が、セシウム137の濃度を大きく表明したものだから、原水爆実験を推進したいアメリカ側から、調査方法へのクレームがきた。三宅はアメリカの原子力委員会に対して、日米の相互検定を申し出、猿橋勝子が単身その戦いに挑むことになる。
 実に差別的な扱いを受け、そして後で分かるのだが、検定の仕方に於いてもアメリカ側が仕組んだ不公平があったという。しかし、勝子の方法はアメリカの検定調査に勝り、その調査分析の精度が認められる。「日本のマリー・キュリー」が勝ったのだ。
 このことから三宅との放射能研究は世界の注目を浴び、1963年の部分的核実験禁止条約の成立に影響したというのだから、こうした科学者の研究のもつ意義は、果てしなく大きい。
 ところでまたその後のことだが、猿橋勝子は、女性で初めて日本学術会議会員に選ばれた。この辺りは、勝子の生涯を振り返るエピローグに書かれているのだが、私はそこに、思わず目を見開いた。もしかすると、これが本書執筆の動機だったのではないか、と勘ぐったほどである。
 2020年秋、学術会議が推薦した新会員105人のうち6人が、菅義偉内閣によって拒否された。政府にとり面白くない研究メンバーだったと言われる。政府は政府で、日本学術会議の存在意義まで世論に訴え、一部の政府信奉者は、科学や学術について何も知るところがないのに、学術会議不要だなどと背後でシュプレヒコールするようにさえなった。
 本作の著者は、科学者である。この学術会議が、核実験を抑え、核実験を拡大させないことを促したという点を、読者に見せたかったのではないか。もちろん、私の勝手な想像であるから、作者についてどうだと決めつけているわけではない。
 なお、プロローグとエピローグは、勝子を過去に見る眼差しで、場面が描かれているが、もちろんそれらは巧みにリンクしている。私も、終章を読んで、思わず再び序章を読み直してニヤリとした。そのどちらの場面も、雨が飾っている。それは、勝子が雨が好きで、紫陽花に心を寄せるという描写が随所にあることをも踏まえており、それを以て本のタイトルとしたのであると思われる。若い緑の木々に注ぐのが「翠雨」であり、さわやかで生き生きとした雰囲気を醸し出している。そして、勝子の生涯を描く最後の場面は、カリフォルニアの空にかかる虹となって、いまの私たちが平和を希望してゆくこと示しているように、私は感じた。ひたむきな科学者がもたらす、世界への力というものを、もっと信じたいと思った。




Takapan
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