『水中の哲学者』
永井玲衣
晶文社
\1600+
2021.9.
若いのにあちこちで活躍している方のようだ。東進にも関わっているから、私と毛一本程度のつながりもあることになろうか。
タイトルがいい。誰もこうした感覚で哲学を語ろうとはしなかったように思う。しかし、その水中ということが何であるのか、それを定義しようとはしない。そのような哲学のあり方で、この人はひたすら「考える」ことに徹しているような気がする。
極めて感覚的に、物事の周りを興味本位で触っていくだけのような文体でありながら、ありがちな「それぞれでいいじゃん」式のまとめ方をしようとは考えていない。求めているのは「もっと普遍的で、美しくと、圧倒的な何か」であると宣言している。それが、潜水して考えることの目的であるようだ。
ここには、ブログ掲載の記事をはじめ、いくつかのメディアのために書いたものが集められている。哲学エッセイ、とでも呼べばよいのだろうか。この本で5〜10頁くらいの量のエッセイがたくさん掲載されている。断片的な原稿の集まりであるために、続けて呼んで筋道が有るというわけではない。一つひとつの事柄にその都度焦点を当て、自由に思いを綴るという形である。
タイプはまた違うが、鷲田清一氏を思い出した。但しこちらはどうしても現象学的な背景を想像するものであるが、こちらはどうだろう。伝統的な哲学史の中のなんとか主義などの壁の中に籠城するタイプではなさそうだ。論理的思考は大切にする。しかし、生きていて感じる生の感覚をそれ以上に大切にしている。時にその表現は、詩人のように自由に遊離し、気ままに着地してはまた飛んで行くかのようにも見える。倫理的な視点であるにしても、善悪とは何かに没頭するわけでもない。
本文中でも紹介されているが、たとえば各地の小学校あるいは中学高校を巡り、哲学対話の授業を繰り返してもいる。子どものための哲学という関心がその辺りから形成されているのだろうと想像する。興味深い試みである。
本書の魅力を紹介するのは、無理だと思う。これを何らかの言い方でまとめてしまうと、全く本書とは違うものになってしまうだろう。釣った魚を写真に撮り、これですと見せても、その魚の魅力をどうにも紹介できないもどかしさと同じようなものを感じてしまうのだ。
だが文章として読ませること、それには、哲学以前にまた魅力があるように思う。一行目からいきなり「時計がこわい。」から始まりもするし、「親戚が好きになれない」というスタートも、ぐいと引き込む暴力性を備えている。「笑うことが好きだ。」もいいし、「教科書を忘れて、授業に出ている。」となると、スリリングに読者の心を見透かしたようなテクニシャンだとも感心する。そう、冒頭の一文をできるかぎり短いものにして、それで引き込もうとするケースが目立つ。教えられた。
そして、出てくる話題が、自分の記憶の中の出来事が多いのだ。最近のことももちろんあるが、遙か昔のことが実に多い。それほどよく覚えているものなのか、とも思う。あるいは、それほど心が傷ついたのであって、その傷がずっと残っていたのか、とも思う。弱いものが、弱いからこそ永久に周囲の石に自分の形を遺して何億年と姿を残すかのように、自分の中の弱さが、何かをきっかけに、それはそれはあふれ出してくるのだろうか。
本人はひけらかさないが、哲学の基礎をたいそうな時間をかけて学んでいるはずだ。私のような凡人なら、俺はこんなことを知っているんだぜ、と見せつけるか、あるいはさりげなく登場させるという形で衒学的な優越感に浸るかやりたくなるものだが、本書にはそうしたものを見出すことが難しいくらい哲学者や哲学思想をぶつけてはこない。サルトルは専門に近いのか、少しその考えについて検討するような場面があるけれども、他はいくらかおちゃらけたものとして出してくるのがせいぜいのところだろうか。
何はともあれ、自分の中の経験、それが本書の強みであろう。抽象的な議論にしたほうが、一般性があり、この人の目指す普遍性があるように思えるが、その路線を嗤うかのように、実に具体的な、個人的な出来事を延々と語る。普遍性というものがあるとすれば、そこにしかない、という信念を貫こうとしているかのように。
それらの記述を見ると、精神分析をする価値があるようにも思えてくる。病的な診断を下すことがどこかで可能ではないか、という気さえするのだ。それはまた、私も同じ景色を見ていたというように気持ちを重ねることができたから、でもある。だから心理分析の専門家が本書をご覧になったら何を言うか、ということに私はいま非常に興味津々である。
しかし、「考える」こと、「問う」ことへの熱意というのは、まさに哲学そのものであると言ってもよいと思う。よけいな枝葉をそぎ落としていけば、哲学にはこれしか残らないと私は思う身体。答えは出ないんですか、と出会った人たちに尋ねられることが多いらしいが、計算の答えのように万人が従うようなテーゼがもし与えられたら、それはもはや哲学なんぞではないし、それ以前に、そんなことはありえないとすべきであろう。それはまさに世界の死である。このことを私たちはいまもまた「考える」のであるし、「問う」ていることになる。それがある限り、哲学も世界も死ぬことはあるまい。
エッセイであるにしても、文は非常に乱暴なタイプとなっている。話口調で怒鳴り散らし、あるいは漫才のネタを紹介したりそれにボケたりと、なんだか「軽い」ものであるように見せようとしているようにも感じられたが、たぶんこれがふだんの話し方に近いのではないかと想像する。但し、この口調で延々と250頁余りも、思考を揺さぶる話が続くのを読んでいくと、読者としては、かなり疲れを覚えるのではないかと懸念する。つまり、ブログやエッセイとして、何かの場にちらりと登場して少しばかりおつき合い願う形で登場するのには実に楽しく接することができるのであるが、いくらかエネルギーを要することでもあるので、その読み物が連続して繰り返されると、読者は疲れるのではないか。NHKの朝ドラが、15分で毎日あるのでつい見てしまうというのはあるが、これが朝から晩まで延々と放送され続けていたとしたら、たまらなく疲れるであろうという感覚に、それは少し似ているのかもしれない。
だからお薦めは、ちびちびと少しずつ読んでいく道である。一か月くらいかけて終わるのがよいのではないか。聖書でも、31章ある「箴言」を毎日1章ずつ読んで繰り返すと、一年に幾度も箴言が楽しめるなどということを言った人がいたが、同様に、一か月に一回ずつローテーションすることで、すっかり海水の中に潜り続けていることも、夢ではないのかもしれない。ちょっとそんなことを思った。