本

『そして、星の輝く夜がくる』

ホンとの本

『そして、星の輝く夜がくる』
真山仁
講談社文庫
\660+
2015.12.

 単行本としては2014年に出版されている。東日本大震災で教育が不足した東北のある地域に、神戸からひとりの男が派遣されてくる。ものをずばずば言うタイプの壮年教師小野寺は、様々なものを背負いつつ、乗り込んでくることになったのだ。思いを表現することを拒む東北の子どもたちに対して、この小野寺は、それを出してよいのだと指導する。あまりにはっきりとしたものの言い方のために周囲とぶつかりはするが、比較的理解のある校長のもとに、まずは言いたいことをぶちまける学級壁新聞の発行にこぎつける。物議を醸しはするが、この運動はマスコミの目にも止まる。お気づきだろうが、東北で実際に地域の人々を励ます役割を果たした壁新聞がそのモチーフにあると思われるが、物語では、必ずしも報道された実情と同じものとはしていない。そのようにして、被災地の問題を深く捉えるものとしていこうとしている。
 全体としてこの小野寺を通しての地域の歩みが描かれるが、形式としては、短編がいくつか集まった形で編集されており、また執筆されてもいる。そこで、福島から逃れてきた子がいじめられるという、まさに今年問題になっている事態がここに明確に描かれていることにも驚かされるが、小野寺がこれを支える側にまわる。
 とはいえ、単純に勧善懲悪の形で進んでいくものではない。ほかにもボランティアの態度と住民との関係など、被災地にまつわる様々な問題点を描きながら物語は展開するのだが、どの意見が正しいのか、読者にそれを伝えるという様子ではないように見える。確かに、小野寺の振るまいが事態を動かしていく。それがひとつの可能性として提示されているように描かれる。しかし、それがよいことだ、と主張しているのではないことは、読めば分かる。事態には異なる立場の人間がいくらでもいる。それぞれにとり最善の方向が一致するとは限らない。別の立場から見れば、よいように思われる提案も、退けられるべきこととなる。だから意見の対立が描かれ、必ずしもそれがひとつに解決されていくというわけではない。読者は、どうすればよいのか、一人ひとりが考えさせられるという場所に置かれることになるだろう。
 この小野寺は、実は阪神淡路大震災の被災者である。それは、経済小説として名を馳せた作者そのものの立場を反映している。小野寺は、震災で妻子を失った。その日に偶々不在だった自分は、ひとり生かされたのだ。その疵を抱えながら、しかし前向きに歩もうとしている。神戸での教え子が、東北に現れる。互いに疵を負いつつ、意見を対立され、被災地の問題を深くえぐるように物語は進んでいく。
 被災地を忘れないでいてほしい、と願う人々もいる。しかしその「忘れないで」という意味は何であるのか。小野寺は問いかけつつ、これまで出たこともなかったような、1.17の集いに出るために神戸に向かう。
 まとめられたタイトルにある星というものが、ことさらに印象的に描かれているわけではない。だが読者は、その5:46の黙祷の風景に、きっと星を見上げていることだろう。冷たい冬の空に輝く星であるが、それは希望でもある。かすかなきらめきが弱々しいのは当然であるが、足もとにばかり目を落とさず、空を見上げる心を起こしてくれる。それでもなお、その星の輝きは、私たちの立つところを照らしてほしいと思う。
 阪神淡路大震災と東日本大震災を結ぶひとつの線の間に、小野寺は立つ。東北の人の代弁をすることはできない。ある意味でよそ者である。しかし、震災の痛みを知っている者として、震災とは関係がないという大多数の日本人と、被災の当事者との間をつなぐ役割を果たしているのは確かであるし、おそらく無関係と思われる人もみな、そのつながりの中にあってほしいという願いが、作者にはあるのではないかと思う。あるいは、作者自身の中でどうしても、つながりを覚えて仕方がないという思いが、この物語を、温かなものにしていったのではないか、とも思われる。
 2016年、今度は熊本で、この問題が起こる。被災者は打ちのめされ、立ち直れない中で半年を迎えた。そのありさまを目の当たりにした私は、この小説に出会い、読みふけ、強く心に迫るものがあった。やはり最後のシーンには涙しつつ、では自分はどう関わっていくのか、それを問われたことには間違いないと自覚するのであった。




Takapan
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