本

『スポーツニュースは恐い』

ホンとの本

『スポーツニュースは恐い』
森田浩之
NHK出版生活人新書232
\735
2007.9

 こんなに面白い本が735円で買えるというのは驚異的だ。サブタイトルは「刷り込まれる<日本人>」という。この意味は、読めば分かる。
 実に刺激的な本であった。私にとっては、「ああ、これなんだ」という快感である。このもやもやとした怪しさは何だ、というふうに、自分の中で違和感を覚えながらも、言語化ができなかったことを、いとも簡単に言葉で論じてあるものに触れたときにいつも感じる、あの感覚である。どうしてこういうスポーツニュースは奇妙なのだろう、これについていきたくないと感じるのはどうしてだろう、と私は常日頃、感じていた。この本に、その訳が余すところなく説明されていた。
 著者は、「スポーツニュースはオヤジである」という仮説をもとに、論じ始める。
 細かなことをここで説明するつもりはない。このスポーツニュースは、セクハラを当然のことのようにやっていた。そして「日本人」を作り上げていた。「日本人」とは何かを、刷り込むことを繰り返し繰り返しやっていた。
 これだけ言っても、何のことは分からないことだと思う。どうしてスポーツニュースはこうなんだろう、というふうに感じていた私の謎が解かれたのだから、私は実に心楽しかったけれども、当然スポーツニュースをただ楽しむだけで満足なさっていた方々もいるわけで、その方がこの本を読んでどのように感じるかは、私には分からない。そんなことはないぞ、と怒って本を投げつけたくなる方もいらっしゃるかもしれない。
 結局、メディアに対するリテラシーの大切さと、それから、サッカーのオシム監督のように真の意味で「自由」でいることができないにしても、刷り込まれている自分を自覚してそこから始めようという提案がなされている。
 このとき、私はふと思ったのだが、オシム監督のような自由を、私はそれなりに得ているような気がしているのである。キリスト者の自由というものが、それに関わるのかどうかは分からない。ただ、どうも怪しくて仕方がない、というふうな感じ方は、その自由の立場に立っていることの証しであるのかもしれない。
 面白い。その理由の一つは、あとがきで記しているように、「ディスコース・アナリシス」が使われているせいであろう。「言説分析」というふうなことだ。その一語がどうして出てきたのか、どうしてそこに置かれているのか、「言葉をねちねちと読み込む」ことをそのように言うのだという。これは、私が聖書を読むために日々使用している方法ではないか。聖書をそのようにねちねちと読むときに、そのたびに光が射してくるのだ。およそ自分のイメージで思い込みから聖書を読むときに、人間が度々犯してきたとんでもない過ちとは、おさらばしたいという思いもそこに加わることがあるが、とにかく、神からのメッセージである聖書の言葉に対して、その意図を十分受け取ろうとする意志から、そのように読むようになったのだ。
 これが、この本の基本的姿勢だというのだから、私の歓迎ぶりが分かるだろう。いや、そんなことで喜んでいる場合ではない。日本はこうした洗脳によって、どこへ行こうとしているのだろうか。どんなふうに「日本人」をイメージし、自らそのように生きようとしているというのだろう。
 いくら強調してもし過ぎることのないくらい、重要なテーマであるように、私は感じる。




Takapan
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