『想起と和解』
R.v.ヴァイツゼッカー
加藤常昭訳
教文館
\1500
1988.11.
岩波ブックレットに『荒れ野の40年: ヴァイツゼッカー大統領演説全文』が出たのが1986年。私はそのときに読んだ。永井清彦氏の訳であった。
私は、加藤常昭先生の手によるその訳があることを、知らなかった。この度それを知り、取り寄せた。綺麗な本だった。私はラインを引くのをすら躊躇い、フィルム附箋を貼るに留めた。
本書はまず、その大統領演説を掲げる。その題は「一九四五年五月八日――四〇年を経て」となっている。他の論文の題もここに掲げておく。「ドイツ人とは――そのアイデンティティについて」「大統領就任に際して――ドイツ人の課題」そして「オクタビオ・パス氏の平和賞受賞に際して」の、合わせて4編である。
これらは、どれも講演である。論文ではない。これらの文書は「はじめに」において、「いずれも、特定の機会に、特定の日に公に語られたものであります。特定の聴衆に語られたものであります」とまず記している。この意義は大きい。ここにあるのは、不特定多数に向けて抽象的に発された言葉ではないのだ。そこには顔がある。一人ひとりの人格がある。人間と人間とが対面しており、語るのは一方的ではあるが、心の内では対話が成り立っている。
何が言いたいのか。教会での礼拝説教も、そのようなものである、ということだ。言葉が、空転していることはない。人の心に、人格に、吸収されていくのを感じる、ということである。生きた言葉、命の言葉だ、ということである。
訳者は、その原書を、大統領から直に送ってもらっている。政府の刊行物であるとのことだが、大変な量のものであるらしい。この辺りの事情は、巻末の「訳者あとがき」に詳しく書かれている。そして、ドイツに関するいろいろな人との交わりや、本書にまつわる背景をたくさんお喋りしている。この「訳者あとがき」だけでも15頁あり、読み応えのある文章となっている。
幾多のドイツ語文献を訳出している訳者であるから、訳文そのものも非常にこなれたものとなっている。さらに、このヴァイツゼッカー大統領の演説が、政治的なものであると共に、おなり信仰的な内容となっているため、牧師並びに神学者としての訳者からすれば、本領発揮ということになるのだろう。聖書に関する表現や思想についての訳出は、いわば本物である。
聖書について知らなければ読めないような、政治的文章である。日本では考えられないかもしれない。神道の教義を盛り込んで日本神話の内容を語るような、所信表明演説など、ありえないであろう。聖書文化を背景としているからこそできるのだ、という見方もあるだろうが、やはりこの姿勢には反発を覚える人々もいたはずである。
もちろん、ここは宗教を論じているわけではない。触れることは芸術や文化であったり、また科学文明や技術の問題であったりする。哲学を専門としているわけではなく、法学の方面の方だと思うが、それでも、これだけのことが言えるのだ。教育の中に、哲学というものがあるからこそなのであろう。日本にも、そういう教育がなされることを願うばかりである。
就任演説で一番有名な言葉も、もちろんここにある。「過去に対して目を閉じる者は、現在に対しても目を閉じるのであります。」しかし、その周辺をも読むことなくして、この句を扱うことはできまい。文脈というものがある。人格をもった聴衆が、これを聴いている。その空気の中でこそ、この言葉は生きる。ここは、「自分の罪責」と「和解」という問題を語り続ける中でのことである。そしてそこには、「思い起こすこと」即ち「想起」というものが、ユダヤの信仰に不可欠なものとして掲げられ、それなしには「和解」というものがありえないことが熱く語られていたのである。
本の題は、訳者の一存で、この「想起」という言葉を入れている。「和解」という言葉も入れている。ということは、まさにこの有名な言葉の脈絡というものが、大きなテーマであるということを意味している、とすべきであろう。
サブタイトルには「共に生きるために」という言葉も、表紙に置かれている。ヨーロッパがある意味でひとつになるために、「自由に向かって共同の道を歩む」ことである、と告げた場面もある。これは、ドイツという国がこれからどうあるべきか、という問題を念頭に置いてこそ言えることである。本書にも、ドイツとは何か、ドイツはいまどうあるのか、これから同すべきなのか、そのような視点での問いかけが多々ある。それは、独善的なものとして掲げるものではない。周囲との関係、他者との関係の中でこそ成り立つアイデンティティというものが、強く意識されている。他者と共にあることが、却って自己の独自性を成立させる、という哲学が背景にある。
日本で、同じような思想を述べることのできるリーダーがいるだろうか。否、いただろうか。本書は、そのような問題意識をも与えてくれる。その有名な大統領の演説は、戦後40年のときのものであった。それは、モーセに率いられたイスラエルの民が、約束の目的地に入るまでに40年を要した、という旧約聖書の記事と重ねて語られている。私が本書を手にして読んだのは、戦後80年目のことである。荒野で迷い迷って40年かかって辿り着いたイスラエルの目的地への旅が、実に往復できるだけの年月を、ついに経たという時の中で、この演説を味わった。
ここにある課題や道は、決して終わっていないし、解決もされていない。私たちにとってはドイツではなく、日本であると言ってよいかと思うが、日本はこの40年目のドイツにも重ねることのできる哲学をもたない。哲学のある国にしたいではないか。哲学を学ぶ国民でありたいではないか。そう思い、共に祈ってくれる方は、いないだろうか。

た
か
ぱ
ん
ワ
イ
ド