本

『それでも、ぼくは死ななかった』

ホンとの本

『それでも、ぼくは死ななかった』
パディ・ドイル
智田貴子訳
アーティストハウス
\1,400
2003.7

 切ない本である。
 作者は、ドラマの脚本などを執筆する作家。ただ、幼いころにひどい虐待を受けたという点で、そのことを記す半生記として、この本が著された。
 何も、この本を明らかにすることで、虐待した人々へ復讐しようなどという意図はない。ただ経験したことを回想しているに過ぎない。
 ショッキングなのは、本のサブタイトルが、「神に見捨てられた虐待の日々」という点だ。筆者は、両親の死により、孤児院へ預けられる。それは、修道院の一部のようなものだった。筆者はそこで、シスターたちに虐待を受ける……。
 その記述の故に、カトリックがどうだなどと言うつもりはない。ただ、興味深かったのはとくに次のことである。カトリックの側では、プロテスタントを見下ろし、プロテスタントが正しい信仰に変わるように、カトリックに戻ってくるように、と祈っていること、そして孤児たちはそのように祈らされることなどが書いてあったのである。
 本は全編、ひたすら幼いときから青年期に至るまでの、修道院での出来事の回想である。もしかするとすべてフィクションではあるまいか、と錯覚するほどに、それらは映画的であり、克明である。もしそれだけのことを記憶しているとすれば、よほど記憶力が優れているか、それとも、よほど鮮明な記憶に残るほどの虐待を受けたか、だ。
 アイルランドの修道院での出来事なのだが、このことを著したおかげで、ずいぶんアイルランドの教会にはにらまれたそうである。無理もない。回想であれ何であれ、恥部を暴き出された者の恨みは大きい。しかしまた、それらが明るみに出されたという点で、世論の監視を受けるようになった点では、隠された虐待が減る原動力として働いた点は否めない。
 キリスト教という名前がすべて尊いのではない。クリスチャンであるという理由で、正しいのではない。むしろ過去には多くの恥部がある。それを正面から見据えて、謝罪なり悔い改めなり、社会に表明していかなければなるまい。拉致したことを正直に認めて回復しなければならない国もあるし、虐殺し、強制労働させ、差別を続けていることを的確に認めて頭を下げなければならない国もある。他人事ではなく、クリスチャンこそまた、そのようなことを正当に認め、和解を求めて一歩出て行かなければならない。
 それは、自虐という意味からは、最も遠いことであるはずだ。相手を尊重するからこそ、自分を尊重することにつながるのである。




Takapan
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