本

『空飛び猫』

ホンとの本

『空飛び猫』
アーシュラ・K・グウィン
村上春樹訳
S.D.シンドラー絵
講談社文庫
\602+
1996.4.

 絵本である。表紙には猫の絵。ペン画で線をこれでもかというほどに描き込んだもので、色もやや淡く着けられているものだが、木の枝の上に四匹の猫がいる絵である。そしてそれぞれ、背中に羽が生えている。
 だから「空飛び猫」なのだ。原語では「CATWING」となっている。それも表紙に置かれている。それから英語は表紙に、Illustrations by S.D.SCHINDLER とは書かれているが、作者の綴りは置かれていない。それだけにこれは、この絵の存在意義が高められているような印象を与える。私が手にしたものは文庫だが、訳者も中で告げているように、これは「絵本」である。
 四匹の子どもたちに羽が生えているのはどうしてなのか、母猫は分からないという。だが、その程度の疑問符を投げかけただけで、その後は、猫たちに羽が生えていることがさも当然のこととして、話が進んでいく。子どもたちがこれを聞いたとして、最初は驚くかもしれないが、一旦受け容れてしまえば、後は成り行きに任せて共に冒険していく子どもたちの本能に合わせて、きっと物語の中に溶け込んでいくことだろう。作者は巧いなあと思う。私だって、すっかり話にのめりこんでしまったぞ。
 路地裏で生活する子猫たち。最初は飛べなかったが、危険な場面で思わず飛んだことから、皆飛べるという段階に入っていく。すると母猫は、四匹に独立を促す。そして四匹一緒に野生の生活を始める。都会で生まれた猫たちは、土の軟らかさを知り、また食を得る術について上達していく。
 森の鳥たちはここで会議を行う。猫が飛んでいる。たとえ飛行そのものは鳥たちのほうが巧いにしても、これは鳥たちの危機である。木の上で安全と思って休んでいることができなくなる。そこへも猫が簡単にやってくるからである。
 フクロウが、この鳥たちの会議を聞き、猫たちに立ち向かう。まだ子猫から青年になろうとする頃である。傷つく子も現れた。
 森の中で、彼らは用心するべきことを学習する。そのうち、人間を見る経験をする。路地裏時代に出会った人間は、子猫たちにとっては、「靴」であり「手」であるような描写があった。これは新鮮だった。猫たちに取り、人間はひとつの人格的存在ではない。それは時に恐ろしい「靴」であり、時につままれる「手」だった。ちょっと恐ろしいものではあるが、自分の身に及ぶ存在は、「手」なのだった。
 そして森で彼らに餌を与えてくれたのは、幼い女の子、そしてその兄だった。二人との出会いは、果たしてどうなるのか。
 ご安心戴きたい。これは子どもが見る絵本である。子どもたちの心に響く作品だということにしておけば、この後どうなるか、いくらかは予想がつくだろう。いまかなりネタバレをしてしまったが、さすがにここから先はやめておこう。
 訳者は、数カ所、原文の英語を本文のような日本語にした訳を紹介する。それは、子どもたちには必要ないが、もし大人が読み聞かせをしたときに、子どもの質問に答えることができるように、という配慮のようだ。それでも数頁最後に設けているところを見ると、訳者としてその訳を味わってほしいという意図もあるのだろうかと勘ぐってしまう。
 本来訳者稼業から文学の世界に入り、猫好きでも有名なこの訳者、もちろんもう明かしている通り、村上春樹である。彼の訳だから、手に入れた。読む気になった。他の作品でも独特の訳を展開する人として知られているが、さて、本書の場合はどうだろう。実は横書きで綴られたこの本文、かなり漢字が使われている。ふりがなもない。さすがに「罵る」にはふりがなが付けられているが、「侮辱」にはない。「喧嘩」「憤慨」をなどもないから、これは決して子どもに単独に与えて読ませるタイプのものとは考えづらい。子ども向けの本であるにしても、やっぱりこれは、大人に向けてのメッセージを感じざるをえない。たぶん、子猫に同化して読んでいくことは難しいかもしれないが、それよりも、物語世界が醸し出す優しさに、何かしら自分の手がもたらすことのできる温もりのようなものに、気づかされるのではないだろうか。
 これは続編も読まねばなるまい。早速取り寄せることにした。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります