本

『空が分裂する』

ホンとの本

『空が分裂する』
最果タヒ
新潮文庫
\480+
2015.9.

 中原中也賞受賞の詩人による、ひとつの作品群。制作当時、少年漫画誌に詩を連載するという試みがあったといい、世代へ開かれる詩ということでいろいろ考えることが多かったのだという。
 感性豊かな息子が気に入って、この人の小さな展示会に行き、また喜んでいた。そんな彼の世界を垣間見たいという思いもあり、手に取ってみたという具合である。
 著者の他の本を知らないから比較ができず、またその人物像を何か知っているというわけでもないので、そうした意味で適切なコメントができるものではないが、個人の感想というような形で、少し私も言葉を零してみようかと思う。
 まず、詩そのものは、理解不能である。日本語を使っている。単語の意味は分からないものは一つもない。それらのつながりが問題である。確かに、それなりにつながる語の組合せはある。しかし、その文の途中で、まるっきり予想もしないものが登場したり、時空が歪むように辻褄が合わなくなるのである。
 そう、「あとがき」にも記してあることだ。尤も私は全部を見終わってから「あとがき」に目を通したが、言わんとしていることはだいたい思っていた通りだった。私もここまではいかないが、詩心を少しばかりもっている。この方面に走るときに何を心がけるか、わずかには心得ている。
 ここで「わかる」ことを目指すことは、ありえないのだ。これをわかろうとすること自体が誤りなのである。著者は記していないことだが、「わかる」とは、それが他のものではないと境界線を引くことにつながり、そのためには「分ける」という営みが隠れているというのがよく言われる理解である。言葉は、伝達であれ、思想の表明であれ、たいていはこの「分ける」ことを志向する。しかし、それだけが言葉のもつ意味のすべてではないはずだ。声にならない声、つまり言葉にならない呻きのようなものが被造物の中にあることは、パウロも思わず漏らしている。理屈で説明できない、などというが、より根本的には、言語化ができないことがあると言ったほうが自然かもしれない。それは東洋思想ではごく自然なものとして捉えられることなのだが、西欧文明の基準では、畑が違うような気かん゛する。言葉がすべて、分けられて伝えられるべきだ、などというのは幻想である。
 しかしまた、本当に「わからない」ということになれば、ひとは不安を懐くであろう。世界の中で、自分なりにであっても分けて理解した対象を目の前にしているのではなく、言葉で言えないようなものに取り囲まれ、取り憑かれているとなると、それを追い散らすような呪文すら知らないでいるということなるからである。
 しかし、その言葉を思いついたのは自分である。この自分の中に、自分の外から与えられたかのようにして、言葉が芽生える。自分の純粋なひとつの姿をそこに確証することができるとしたら、それで十分だし、時にはそれができるのかしらとすら謎を秘めつつ、自信などないままに、言葉を紡いでいくことになる。それは自分から出たとさえ思えないほどのつながりを以て、そこに輝くことになる。自分とはそれだったのかもしれない、というように教えられる思いさえ与えられて、言葉の誕生を祝うことになるだろう。
 わかりあうために、言葉を使うのではない。「わからない」存在なのだという了解があれば十分である。互いに、あるいは自分が、孤独であるということを痛感しながら、確かに自分が吐き出した言葉が、命を伴って自分に逆襲してくるような期待をしていくのが楽しいのではないだろうか。
 本書は、多くの漫画家やイラストレーターの描く、印象的なイラストが前半それぞれの詩の背景として用意されている。タイトルだけが原画と共にあり、詩の頁はそのイラストが背景に薄く後退している。個性のあるイラストで、幻想的な世界をもたらすものが多い。このイラストを見ているだけでも、何か言葉が零れてきそうなくらいである。自分の中からそれが出てくるのかどうか、読者は愉しんだらいい。
 ただ、本詩集には、あまりに「死」が走り回っていて危ない感じさえする。「死なない」存在がちらちら現れては、何か観察した対象の描写の中に、突如として死が関わってくる。もちろん、多くの場合、脈略もなくそれがやってくる。
 ここに意味を見出そうとか、言葉でそれを説明しようとかいうふうになることそのものが、詩的人間としては許されないことである。
 思えば、自分にとってもそうだったし、そうであるとも言える。死を忘れるな、という命令に従うでもなく、自らそのテリトリーから離れられないであることは分かっている。この死の陰は、場合によっては危険なこともあるが、生を見つめ生を感じるためには、片時も忘れてはならないものであるともいえる。だが、世の人はこれを忘れている。さしあたりはそこにないものとして、忘却の中に置く。そうして、死を忘れたからこそ仕方なしに相手をするかのように、愉しみに興じ、明るい人生を謳歌する。少なくとも、謳歌している演技をする。
 自分はここにしかいない。だから死もユニークである。数字の中の一つではないし、誰もが行き着く普遍的な原理としてのそれでもない。著者の言葉への挑戦は、ひたすら自分の死、あの人やかの人のものではなく確実に自分自分自身の死というものと向き合い、あるいは時に意識的に逃げながら、その風景の中にこぼれ落ちてくる不条理を拾い上げて、言葉のトーテムポールに、消えない傷痕を刻みこもうとしているのではなだろうか。言葉の意味やつながりが「わかる」ことを著者は求めてはいないだろう。だが、詩を書くことでしか表現できないような何かが自分の中にあるというエネルギーをそのまま消え入らせることができなくて、符合のようなテクストを、そこに並べていくこの営みそのものに、共感できる人がいてくれたら、ちょっと微笑んでもいいぜ、というように、言葉を遺しているのではないか。そんな勝手な想像をして、私は愉しんでみた。
 いまの私の場合は、神という存在がある。だから、詩を作る場面の背後に、前提とも言えるような神がつねにすでにそこにあるわけで、本書の著者とはまた違う世界の中で、言葉が与えられ、言葉が命となっていることを体験している。最果てまで行ってみたら、思いもよらぬ次元において、この神と出会えるかもしれない。私はそうした座から、言葉を与えられるようにと願っている。




Takapan
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