『尊厳』
マイケル・ローゼン
内尾太一・峯陽一訳
岩波新書1870
\840+
2021.3.
ずっと気になっていた。「尊厳」とは、なんとも当たり前のように捉えている概念ではないだろうか。人格にしても、その尊厳を守れ、と言われればそれまでだし、尊厳死などと言われても、大切にすることなのだ、という程度で肯くしかなかった。あるいは、本当の尊厳とは何か、などとも話をしそうでもあった。
だが、尊厳とは何か、改めて問うことは、案外ないのである。それは「民主主義」とか「法治国家」とか言えば、もうそれに反論する余地がなく、絶対的に正しいものであるような空気になってしまうのと同様である。
本当に「尊厳」とは、検討なしに正しいもの、尊重するものなのであろうか。また、それを尊重するということは、そもそもどういうことなのだろうか。
本書の著者は、政治哲学者である。だが、それは政治専門というわけではない。海外の哲学者は、たいていそうである。相当に、哲学や倫理学などを修めていると理解すべきである。そういう文化であるからだ。
そして、本書を開くと分かるが、カントについてかなり詳しい。というより、カントの尊厳思想をひとつのベースに置いている。とはいえ、カントを踏襲するのではない。カントはカントである。時代的な限界もあるし、宗教と政治との関係も時代的なものがある。カントは宗教や教会の独断的な規定が絶対的に正しいとし、またそれを原理とはしなかった。人間理性の素晴らしさ、その認識能力を検討する中で見出され、領域が守られた、道徳性を人格根本に置き、そこに尊厳を見たのであった。
そのカント思想と、カトリック思想とが大きく対立するように見える。これをひとつのバックとしながらも、著者は広い見識と筋の通った主張を構えると共に、西欧思想の背景を横断しながら、尊厳について可能な限り公平な視点を提供しようとする。専門的な書物として書いたのではないため、一般人にも読みやすく配慮されており、しかも議論そのものに手抜きはないときて、これだけのコンパクトな質と量の中で、非常に明晰に論じており、読者を導いているように思う。
尊厳というが、もちろん著者はこの言葉で考えてはいない。日本では「尊」と「厳」という、完治の与える意味を背景に概念を想定することになるが、英語ではdignityからくる。「訳者あとがき」の後半で、本書の内容はおおまかに振り返っており、本文独語にここを見れば、まとめを得たような心地よさを感じるであろう。
「地位としての尊厳」は、おもに古い時代の考え方であろう。しかし、フランス革命は確かに大きな出来事だった。フランスが揺れ、ヨーロッパが揺れた。人間が平等に尊厳をもつ、という、いまなら当たり前にも見えるテーゼが、実はとんでもなく世界を変える、大きな出来事を産んでいくか、改めて突きつけられるような思いがする。
次は「本質としての尊厳」を見る。ここには、巨人カントの道徳思想が解説される。理性の自律を認めるときに、本質として人間は尊厳をもっている、という捉え方が前面に出てくるのである。
次に「態度としての尊厳」を見守る。シラーの捉え方を軸として、本質的に尊厳があるのだ、というよりも、人間の振る舞いの中に尊厳を見出そうとしたのである。苦難の中でも、冷静に振る舞う姿が、代表的な尊厳の示し方であると言えるだろう。私たちは、おそらくは時代により尊厳の価値や意味づけを変更しながら、歴史を刻んできたに違いない。だから尊厳とは何か、がひとつに定まっているものではなく、それをどう捉えるか、ということが、時代の基盤となって歴史を作っていった、と見たほうが適切であるのかもしれない。
加えて、他者の尊厳に対して人はどのような態度をとるほべきか、という視点で、焦点の定まらなかった尊厳の概念を、ひとつの場の中で、あるいは自分だけの閉じこもった思想においてではなくて、より社会的な、他者の扱いにおいて、顧みようとすることになる。
そこは政治哲学者である。中盤では、ドイツの実際の法を素材としながら、孫権というものが法的にどのように定められ、また社会的議論を呼ぶような法の適用の中で、人間の尊厳とは何か、を問う、厚みのある議論は聞き応えがあった。近ごろ、人口に膾炙しているトリッキーな問題として、いわゆる「トロッコ問題」が話題に上る。素人にも問いかけやすい仕方で、倫理的選択を考える思考実験である。しかし現実には、そのような問題はいくらでも起こっている。本書での議論は、実際に合った犯罪事件において、どう尊厳を守るのか、いったい何が尊厳に値するのか、そのような深みのある考察が施される。しかし現実的に、法廷は法を解釈しなければならない。その判決は、尊厳を剥奪するようなことさえも、当然のことのように行うことになる。
私たちも、考えることができる。人を殺した囚人を大切に扱うことについて、微妙な感情が伴うことはないか。被害者の尊厳は踏みにじられたのに、加害者の尊厳を法が守るということに、何か苦々しい思いを懐くことはないか。
こういう場では言い尽くせない、様々な議論が検討されている。人間だから大切にしようという原則でよいのか。幸福や利益の多い結論が優れているのか。人は長い間、同じところをぐるぐると議論をして辿ってきた。人間の価値、それも他人の中に見出す価値というもについて、いまここで、改めて考察しなければならないであろう。
特にユニークなのは、著者が、死者を鞭打つことは死者の尊厳を踏みにじることとして認められないのではないか、という問いかけをすることである。これは尊厳を守ることだ、と行うことが、実際のところ誰のためにもならず、風の中に消えるような結果であることが明らかにであっても、尊厳を守るために淡々とそれを行わなければならないのか、という問いかけである。著者は書いていないが、誰も見ていないところでも信号を守って、歩行者は道路を横断するのが当然なのだろうか、というような角度の見方に似ているような気がする。
もしかすると、あらゆる文化や時代に普遍的な結論は出ないのかもしれない。だがそれでも、尊厳を守るということについては、人が人であるためには、死守しなければならない考え方があるのではないか。著者は、だから、死者の尊厳にも、十分な対応をするべきだと考えているのである。
ひとを大切にしましょう。易しい言葉で言うならば、それでも良いのではないか。そして、いま聖書で訳されている「愛」という言葉を、かつての日本人は「お大切」と訳したという。ならば、尊厳を思うことは、キリスト者が「愛」を考えることと同じであるのかもしれない。キリスト者は、「尊厳」について、聖書を通じて真摯に考え、また実践しようとしているのではないか。
本書が指摘するように、「尊厳」の概念を神から理解しなければならない、というカトリック的な考えは、思想の一部であることは確かだろうが、逆に「愛」という漠然とした、捉えにくい聖書の核心について、もう少しばかり具体的な「尊厳」というガイドラインによって、近づいてみるという試みは、思うよりも意義あるものであるのかもしれない。

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