本

『そこに僕はいた』

ホンとの本

『そこに僕はいた』
辻仁成
新潮文庫
\362+
1995.6.

 塾で国語の授業のとき、小中学生に相応しいような、いろいろな小説に触れることがある。中学受検のための国語というのは、題材が確かに子どもの世界を描いたものであることが殆どだが、それでも、その設定や心理などは、決して簡単に読み解けるものではないかもしれない。案外、高校入試よりも問題としては難しいとも言えるように思う。
 入試問題にしろ、教材にしろ、選ばれる作品は、やはりなかなかのものである。ぜひその話を読んでみたい、と思うことも度々ある。そして、これまでも、そうやってその作家の作品をいくつか熱中して読んでみる、ということがあった。寺地はるなが最初だっただろうか。乾ルカはけっこうたくさん読んだ。浅田次郎もあったし、重松清も何冊も読んだ。そして今、出会ったのが辻仁成である。
 南果歩や中山美穂と結婚や離婚をしたというふうに、芸能ニュースでおなじみの人ではあったが、実のところその小説を読んだことがなかった。私は小説は、あまり読まないのである。ヒットしたテレビドラマや映画の原作者としても知られるが、そういうメディアものも、私はまず見ていなかったのだ。
 そこへきて、今回小学四年生の国語のテキストに、この『そして僕はいた』があった。「あーちゃん」の話である。淡々と書くその悪ガキめいた世界の描写が、淡々としていて、しかしちょっとした表現や言い回しが軽快で、好ましく思えた。何より、飄々とした描き方の背後に、「心」というものがしっかり伝わってくるように書くというのは、小説としては大切なことである。それが巧かった。四の五の言わせず、ばしんと心情が伝わってきた。
 では、本作も読んでみようか、という気持ちになって捜していたが、案外見当たらない。しかしそう長い時間を使わず、見つけ出した。
 そして読み始めたら、私にしてみれば短い日数で読み終えてしまった。
 小学四年生が読み通す本ではなかった。
 最初は小学生。その辺りに、「あーちゃん」の話はあった。思い出話として語るのであるから、恐らくこれはエッセイであって、小説ではない。だが、一つの小説として読むことに、私は反対しない。そういう、描き方としても内容としても、見事なものである。
 私にとっては、この小学生の時期の思い出が、福岡を舞台にしていることが、心地よかった。福岡の言葉で子どもたちがやりとりする。他の地域の人たちには、そのニュアンスが分からないかもしれないが、私はもちろんそのまま受け容れられる。
 一つひとつの思い出は、それほど長くはない。時に例外はあるが、文庫本で10頁ずつくらいのものである。これが、中学、高校と次第に進んでゆく。だんだんと、小学生には相応しくない描写が多くなる。そもそも小学生の時期にしても、友だちと、かなり悪いことをしている。国語は道徳でもあるから、悪を教えるようなことはわざわざしない。だから、中学入試に選ぶならば、場面が限られることだと思う。
 タイトルの「そこに僕はいた」、これが実にいい。僕はこういう経験をした、ではないのだ。主体は「そこ」であって、「僕」ではない。この世界には、「そこ」というものが多々ある。一人称で書かれてあるという意味では、この作品はすべてそうなのであるから、普通ならば、僕の視点から見えるものが世界のすべてであって、僕を中心に世界が変わり、物語が展開してゆくものだろう。だが、タイトルは「そこ」がまずあるのである。まるで、「僕」が、ひょいとその舞台に登場して、右往左往しているような雰囲気さえ醸し出す。
 思い出の全ては、必ず誰かとの「関係」を描いている。多くの「友だち」とのやりとりと、関係が、素朴に、そして濃厚にあるいは淡白に、描かれているのだ。すると「そこ」というのは、人がいてもいなくてもよいような「場所」ではない。その「友だち」であり、「出会った人々」である。
 自分は、人の中にいた。そういう告白であるのかどうか、私は知らないが、私はそのように感じた。その「人」というものに、読者が、私が、含まれているのかもしれない。古くさい表現だが、「人間」は「人」の「間」と書く。人とのつながりは、決してウェットなものではない。本作でも、人間心理に於いて、すれ違いや通じ無さというものに、実のところ溢れている。だがそれでも、自分は人の間にいる。否、思い出の中で、確かに「そこにいた」。
 自分の生きた証しであるかもしれない。誰かとのつながりが存在していることを、切に求めているのかもしれない。何十年ぶりかに、思い立って人を訪ねたり連絡したりするような逸話もあった。彼らが辻仁成のことを忘れていた、ということもあるが、辻仁成は、彼らのことを忘れていない。だって、「そこに僕はいた」のだから。  私にとっての「そこ」とは、何であるのだろう。




Takapan
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