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『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(上・下)』

ホンとの本

『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(上・下)』
村上春樹
新潮文庫
\750+,\552
2010.4.,1987.10.

 古書店で集めるため、価格も発行年も情報としてはいい加減だ。もともと新潮社から1985年に発行された単行本が、やがて文庫版として発行されたということだろう。
 村上春樹自身、自分の作品の中で気に入ったものとして挙げることのある作品で、ファンも注目している。タイトルの長さはさておき、このタイトルそのものに構成上の重要な仕掛けがあり、物語は一章ずつ、「ハードボイルド・ワンダーランド」と「世界の終り」とが交互に進められていくことになっている。それぞれの物語は、基本的に関係が内。登場人物も設定も背景も、また様相もまるで違い、全然別々に進行していくのである。主人公はどちらも、村上作品による出てくるような男であるが、「ハードボイルド・ワンダーランド」のほうは「私」、別のほうは「僕」という呼称で話が運ばれるばかりであり、実名は出て来たっけ、という具合である。
 ネタばらしはするつもりがないし、見所を挙げるというのも変である。それでも何か綴らねばなるまい。「私」は「計算士」である。老博士に呼び込まれて計算をする務めを果たすが、実は意識の核に思考回路を埋め込まれていて、「やみくろ」に狙われる中で終末へ向けてアドベンチャーをする。「僕」は閉鎖的な街で一角獣たちの頭骨から「夢読み」の仕事をすることになる。そのとき「影」が分かれ、その「影」と「心」との関係に戸惑いつつ、「影」を失うことで、世界の終りを知るのだった。
 いやはや、これを読んでも何がなんだかさっぱり分からないだろう。架空の科学が飛び交い、それでいてオカルトめいた存在がうようよし、支離滅裂な出来事が続くのに、なんだかそれが本当にあるような、リアリティをもっている。それというのも、「私」や「僕」の行動が、村上劇場らしく、一つひとつ無駄に詳細な描写がなされて、風景もそうだが、意識の変化も事細かく刻まれるので、奇妙な存在感がもたされていくのである。もちろん、女性との関係もご期待通りであるし、しかし決して女性に熱中することもなく、覚めた時間が過ぎていく。例によって、一度結婚していたが突然妻に逃げられて独身になる男として登場するなど、村上ワールドは健在である。  他の作品にも、このような奇天烈な状況設定はあるし、ありえないような世界を描きながら、かなりのリアリティをもっているため、映画や舞台にもなりうると思われるが、さて、この作品、映像化できるのであろうか。影が自分から離れてその影と話をするなどを文章で示すのはある意味で簡単だが、映像になどできるはずがないじゃないか、という気がするのだった。しかし、調べると、アニメーションになっている。うわわ、と思う。影がどうなっているのか、知りたい。
 村上作品には、時折、わざわざ太字にしてあったり、傍線が引かれていたりするところがある。今回上巻の14に「お前はなぜここにいるのだ」「お前は何を求めているのだ」に傍線があったのが目を惹いた。また、心をもたない彼女に質問されて、心というものに説明する「僕」が、「とても不完全なことだ」と言い、「でもそれは跡を残すんだ。そしてその後を我々はもう一度辿ることができるんだ」と説明するところがある。「心」のない人間の世界であるこの街の人に説明する「心」たるもの、ちょっとぞくぞくする。
 老博士が、世界の終りについて、「正確に言うと、今あるこの世界が終るわけではないです。世界は人の心の中で終るのです」と説明するが、「私」はそれが分からないと答える。同じ老博士が、「人間は時間を拡大して不死に至るのではなく、時間を分解して不死に至るのだ」と発見をしたことを言う場面もある。
 他方「僕」のほうは、「この街の完全さは心を失くすことで成立しているんだ。心をなくすことで、それぞれの存在を永遠にひきのばされた時間の中にはめこんでいるんだ」と自分の影から説明を受ける。だが、「僕」は、完全性がはびこる街のあり方に疑問を呈する。不完全な者を抑えこむような真似はしたくないのだ。「いいか、弱い不完全な方の立場からものを見るんだ」と、影に抵抗する言葉に、私は村上春樹のひとつの本音を見たような気がした。というのは、エルサレム賞を受けたときのスピーチの中で、彼の言った有名な言葉がある。「もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。」たとえ卵が間違っており、壁が正しかったとしても、そうするのだ、と村上は語った。それと重なって思えて仕方がなかった。
 さらに「影」はこのようにも言う。「それ(あとに残してきた世界)が立派な世界かどうかは俺にもわからない」「しかしそれは少くとも俺たちの生きるべき世界だ。良いものもあれば、悪いものもある。良くも悪くもないものもある。君はそこで生まれた。そしてそこで死ぬんだ。君が死ねば俺も消える。それがいちばん自然なことなんだ」
 文学作品に、結論というものはないし、これが言いたいのだ、と評することほど、文学を愚弄する言い方もないだろう。ただ、私もまた、自分の影と語らう必要があるであろうことに気づかされる。終りを見つめる眼差しの中で、私の心に触れた言葉だけをつないでも、なんだか生き方というものが厳しく問われているような気持ちになってくるではないか。誰もがその人なりの「世界の終り」へ向けて冒険している。しかしそれは、生きる基本姿勢というものを意識したものでありたいし、弱い立場から世界を見るような視線でありたいと願わざるをえない気がするのだ。




Takapan
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