本

『サウンド・オブ・サイレンス』

ホンとの本

『サウンド・オブ・サイレンス』
五十嵐貴久
文藝春秋
\1680
2011.10.

 なかなかの売れっ子作家らしい。軽快で、今風のドラマや映画をつくるにも適しているかもしれない。
 この本を手に取ったのは、まずタイトルだ。サイモンとガーファンクルの名曲もさることながら、何もフォークソングを扱っているとは思えない。『卒業』のような内容の青春ものを描くにも、わざわざこんなタイトルはもらわないだろう。すると、残った可能性は、沈黙の音、つまりろう者の登場か、と私が感じたからだ。この予想は当たった。それで迷わず図書館でこれを借りることにした。
 著者のことを知らなかったから、最初はいじめや教育ものなのか、とも感じた。この子がろう者なのだな、とすぐに分かるようなやり方で正体が明かされていくのだが、だんだん読む私の顔が曇っていくのが自分でも分かった。
 何か、違う。
 それはよくあることだろう。実際のろう者がこうしたストーリーを読めば、実情と違うよとかありえないとか、簡単に指摘されるものだ。それは、たとえば私が英語で文章を書いたとしたらちょうどいい。こんな英語はない、何を言っているか分からない、文法的に間違っている、そんな声が私の文章を押し潰してしまうことだろう。
 ただ、私はろう者ではない。それでも、実際のろう者のいくらかの人々と関わりがある。偶々一人のろう者を知っている、というだけのつきあい方ではない。その私が、違和感を抱えてしまう展開であり、描写なのだ。
 そんなことはどうでもいい、と言われるかもしれない。これは青春ストーリーなんだから、ろう者であるのにヒップホップダンスを踊り、コンテストで評価されるようになるところが描かれたらそれでよいのだ、と。しかし、幕開けのいじめ問題も深まることはなく、なんだかありえないほどベタに仲良しになっていくし、親子の問題が描かれるのかと思いきや、どこかに放って置かれてしまう。ろう者の苦悩らしいものが描かれるかと思いきや、なんのコミュニケーションのずれも感じさせない展開で、ただの高校生の機関銃のような会話の羅列に走っていく。
 どうにも、リアリティがないのだ。
 ろう者とのコミュニケーションの方法は、と訊かれて、手話、口話、空書、筆談などを挙げていくのが常道だとされてきたのだが、この小説にあるように、ケータイの画面で会話をしていくというのは、なるほど新しい手段であるには違いない。ろう者の文章には助詞や語順などの問題で、通常の日本語からいくらかずれるところがある、というのも、近年の教育現場によってはだいぶ少なくなっているという可能性もあるだろう。しかし、ここに登場する3人の女の子たちは、それぞれろうになる由来が異なり、一人は口話の達人で、普通の高校生活を送り成績も中ほどだという。そして手話をあまり使おうとしない。その親友は普通高校などとんでもない、ろう者のための高校過程を学んでいる。大学生の一人は最近事故で聴覚を失い、手話すら分からない。これらに関わる聴者たる主人公と、これら3人が、ものすごい会話量を展開していくのだ。
 ろう者は、伝え慣れている相手でなければ、情報が正しく伝わっているか、その確認を大切にする。だから、手話を使い会話をする聴者は、できるかぎり口を動かすべきだと言われる。つまり、ろう者から言われたことをそのまま殆ど鸚鵡返しのように手話で、または口話でもよいから返すとよいのだ。それで、ろう者は自分が伝えようとしたことを相手の聴者が正しく受け止めたかどうか、確認でき、それが確認できたら、次の内容に進むことができるようになると考える。そして、伝わったかどうか、同じ手話を最初から何度も繰り返すことを厭うこともない。だから、ジュースでも飲みながら楽しくお喋りしている聴者たる高校生たちのようにすいすいと話が盛り上がるという情景は、ろう者たちの会話にしてはあまりに不自然に見えて仕方がないのだ。
 いや、そんな様子をいちいち描いてはストーリーにならない、というのも本当だろう。それに、ケータイ画面を使って文字で会話をしているのだから、いい、とも。そのために最初のほうで、ケータイを打つのがべらぼうに速いのだという説明をちらほら示している。
 ろう者がダンスなんか、というのは批判に当たらない。ろう者は踊ることができる。教会で讃美歌を手話により讃美し、また殆ど踊るようにしているのも普通の情景である。だから、さして偏見をもちさえしなければ、ろう者がダンスを、というのは突拍子もない発想でもない。しかしまた、音は聴覚でしか感じない、と決めてかかっている作者の感覚にも疑問をもたざるをえなかった。聞こえないのに感じているとか、スピーカーに手を当ててリズムを覚えているとか、そういうことでしか音楽を知覚できないというわけでもないのだ。音は、床からも、また時に真正面からからだに「響く」のだ。伝わってくる響きは当然感じられておかしくないわけで、音声の聴覚としてでなく、からだへの一種の触覚として、音楽は確かに感覚可能な状態にあるのだ。
 そして、私とは決定的に相容れない作者の姿勢は、これである。幾度も登場するから間違いないはずだが、作者は、「ろう者」と対照的な存在として「健常者」を挙げている。ろう者の女の子たちが皆、自分たちは「健常者」ではない、という言い方の中で何も異議を唱えない。近年、「健常者」という言い方は影を潜めている。これに対立するのは「障害者」である。健やかで普通の人と、そうでない人との対立がここにこめられている。少数の立場の聴覚障害者は、社会的に不利な立場に置かれている面はある。その意味で、障害者たる視点があってならないとは思わない。事実、事故などでそういう障害を受けてしまうという場合ももちろんあるからだ。しかし、そもそもが生まれつき聴覚を感じたことのない人が、果たして単なる障害者と呼ばれるのが相応しいのだろうか。また、そうした彼らが生きていく中で身につけた技術は、果たして不足を補うための知恵でしかないのだろうか。いや、それをもし「ろう文化」と呼ぶことができるとすれば、ひとつの独立した生き方であり考え方であり感じ方であって一向に構わないはずだ。
 そもそも「ろう者」と「健常者」では、反対語にもなっていない。聴覚をもたないという以外にも「健常」を外れる状態は幾多あるだろうからだ。さしあたり今は「ろう者」の対立語は「聴者」である。それはいわば別の種類の文化の中にいる人であるように、「ドイツ人」や「イスラムの人」などと呼ぶかのように、違うタイプだとして捉える視点が備わっている。しかし、この小説には、そうした立場はとんと現れない。あくまでも「健常者」ではないということで引っ張られていくだけなのである。
 そんな細かいことを言わなくても、描きたいものは違うのだから、と言われるかもしれない。しかし口話の達人たる春香が普通高校の授業で教師の説明を不自然に誤って受け取るようなことが皆無であり、また無愛想だとはいえ発言も幾度もしているにも拘わらず、偶然町で手話を使っていた春香を見た主人公のほかは、誰ひとりとして、春香に聴覚障害があることを長いこと気づくこともないなど、どうにもリアリティがないのだ。たとえていえば、少女漫画雑誌で、ありそうにもない西洋人が描かれ、誰もその人を西洋人だと気づかないような不自然さが、そこにあるように思う。つまり、ただムードだけがあればよいのであり、現実性に乏しい設定や描写などは、指摘するほうが野暮で無粋だとされるような捉え方が前提となるような状況がそこにあるのだ。
 要するに、これはろう者でなくてもよかったのである。作者の中に、聴覚を失った人がダンスを踊るというのはまさかと皆思い、画期的でびっくりするだろうな、という思惑があって、ただそれだけで創案した小説ではなかっただろうか。さらに言えば、名曲のタイトルからふっと連想した思いつきを、小説にしてやろうか、という程度のきっかけであった可能性すらあると感じる。何もろうの問題を空想するなどもってのほかで、すべてドキュメンタリータッチで取り上げなければならない、などと声高に叫ぶつもりもないが、それならそれでろう者の立場や感じ方などをもう少し取材してもよかったのではないかと思う。具体的な手話も、最初のほうで、「こんにちは」と「はじめまして」などを説明し、最後のほうで思い出したように「拍手」の手話を描く程度である。第一、すでに知り合った高校生同士で、まず相手に教える手話が「はじめまして」というのも不自然だ。手話の初歩入門だったら、それは確かに初めにあるのだが。作者は、手話入門の本などの最初のところをちらりと見て、それを描けばリアリティがある、とでも考えたのではないだろうか。後は全部、ケータイで伝え合うということに逃げているし、必要に思われたらただ「手話で通訳した」という記述だけで済ませている。
 私のような無責任な輩は気にしなくてもよいが、もしこの小説がさらにメディアで取り上げられるようなことがあるとすれば、ろう者の監修を受けてほしい。そうでないと、作品化された後で、作者の品位を落とすことになる。あまりにも、安易な描き方であると思うからだ。




Takapan
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