『雪の練習生』
多和田葉子
新潮社
\1700+
2011.1.
悩んでいる。本書を、どのように紹介したらよいのか、分からないのだ。
なぜ手に取ったか。それは、雑誌「GOAT」との出会いからである。上白石萌音さんが、本書を薦めるコラムを書いていた。それだけの理由である。萌音さんの読書好きは有名である。いつかテレビで、本を買うという行為そのものを取材していることがあった。その読書愛は、本物だ。本書については、本の表紙を見ないように家族にでも取ってもらい、ただ文字だけを読むようにするとよい、と書かれていた。カバーを取り払って読み、読み終わったらカバーを見よ、と。
残念ながら、私はそれができない事情にあり、見てしまったが、見たからと言って、物語の予測は実のところできなかった。私の手に取ったのは、単行本のほうだったから、まだ分かりにくかったのだ。確かに、後に出た文庫本の表紙は、いま調べてみたら、読む前に見てはいけない、という気がする。単行本の方は、まだ謎めいている。
底には、ホッキョクグマの写真だかイラストだか、真っ黒の背景にモノトーンで写っている。表紙のほうに二頭、裏にも一頭ある。
目次を開くと、「祖母の退化論」「死の接吻」「北極を想う日」と書かれている。予断を許さない、不統一なタイトルが謎めいている。
最初の物語は、「わたし」がどうやらライターとなったらしい。だが、なんだか周辺の存在が、いまひとつ不自然だ。違和感の塊のような雰囲気は、どう形容してよいか分からない。それをいまここで説明してしまうと、これから読む方の楽しみを奪い、期待を台無しにしてしまう。
とにかく内容をここから踏み込んで少しでも書けば、この本の仕掛けや味わい方を、駄目にしてしまうのである。
3つの部それぞれに、登場人物が変わることは分かる。
それから、政治風刺のような描き方があることも分かる。多和田葉子氏は、ドイツ在住の作家である。芥川賞を初め、多くの文学賞に名を連ねる。若くしてドイツに住み、ドイツの永住権も取得している。作品は世界各国語に訳され、特にヨーロッパ方面では知名度が高い。ノーベル文学賞に最も近い日本人ではないか、と見られている。
だから、ドイツの社会やそれを取り巻く政治的情況について、何かしら触れるところがある、ということなのだろう。
淡々と綴るその文体は、ぐいぐいと引き込み、余計なことを考えさせない迫力をもつ。さりげないユーモアもうれしいし、殊更に美的文章を目指すのではないにしても、決して事務的に書かれたような文章ではない。ヨーロッパを舞台にして生活する人の、独特の何かがそこにあると言えるだろう。
本書も、自らドイツ語訳をつくった、というような話もある。
「雪の練習生」というタイトルそのものは、なかなか全般的にはつながってこない。しかし、これは私の感覚だが、最後のところへきて登場するそのモチーフが、やはり3つの物語全体を、陰でつないでいたものだった、と気づかされた。
どう紹介してよいか、まだ分かっていない。どうかこれくらいの奇妙な綴り方で、ご勘弁願いたい。決して謎解きではないから、読みながらからくりに気づくことだろうとは思う。だが、私が思うに、本書の商業的宣伝の内容は、読まない方がいい。最初から割り切って読み進んでしまうよりも、これはいったい何だろう、と不思議な感覚に包まれながら、違和感に包まれて読んでゆくことのほうが、きっと楽しい。上白石萌音さんも、たぶんそのような感覚で、カバーを見るな、というような異例の紹介をしていたのではないかと思う。
こうした描き方は、私個人は出会ったことがない。読みながら、もやもやとして仕方がないのだ。これは変だぞ。だがこれこれであるような気がする。でもまさか、そんなふうには思えないが、でもそうとしか思えない。そんな半信半疑の精神状態で、不安定なままに読んでゆく。やがて、それはきっと間違いない、というふうに思えてくるのだが、それにしても、設定があまりに不思議過ぎて、情況を想像するだけで、不思議な世界になってしまうのである。
だから、これはアニメ化はできない。したところで、この不思議な感覚は誰にも味わわせることができない。文章ならではの魅力である。
こうした言い方しかできないのはもどかしいが、やはりこうとして書けない。私に文才があったら、きっと違ったのだろうけれど。

た
か
ぱ
ん
ワ
イ
ド