本

『雪のひとひら』

ホンとの本

『雪のひとひら』
ポール・ギャリコ
矢川澄子訳
新潮文庫
\460+
2014.12.

 美しいデザインの「SNOWFLAKE」。それを「雪のひとひら」と訳した訳者のセンスも美しい。以前から訳はあったそうだが、この装丁で新たに登場したということのようだ。  ファンタジーと言えばファンタジー。雪のひとひらが生まれ、降りてくる。さらさらと降り注ぐ雪たちの中で、このひとつの雪のひとひらが、ひとつの人格のように、様々なことを考える。地上に降りてからも、雪のひとひらはそのままであり、いろいろなことを考える。普通なら水になりそうなところを、どうやら最後まで雪のひとひらであり続けるらしい。水たちと一緒にいろいろな事件に出会う。時には火とも対峙する。雨のしずくと親しくなり、愛し合い、子どもまでもうける。後に雨のしずくは帰らぬ存在となる。子どもたちも巣立っていく。
 ついに海に来て、雪のひとひらの生涯は幕を閉じる。最後の最後に感動的な言葉が待っているのだが、さすがにそれをここでは書けない。
 アニメにもなった、マンガのキャラクターである「しずくちゃん」を思い出すような、水をとりまくような世界なのだが、理科的な眼差しからすると、雪の結晶のことなのだろうが、この雪のひとひらが水と共になり結晶という姿をとることができないはずなのに、どうして一緒にいられるのかしら、と読みながら気がかりであった。
 原題は"SNOWFLAKE"であり、科学的には「雪片」というものだ。しかしこれを和語として「雪のひとひら」という訳も確かにある。なんて美しい言葉なのだろうと思う。指すものは基本的に、雪の結晶であるはずなのだが、物語の訳者は最後まで、この主人公をひたすら「雪のひとひら」と呼び続ける。もしこれを耳で聞いたら「雪野仁平」さんか何かだと思ってしまうかもしれないほどだが、誰かの名前を、こうした和語の美しい言葉でフルに呼び続けるというのはなんとステキなことだろうとうっとりしそうだ。
 だが、最初確かに雪の結晶として地上に降りたのはよかったが、その後時間が経てば、当然溶けて水になるというところが読者には懸念されたのではないか。しかし水に落ちても火に出会っても、この雪のひとひらは、ずっと雪のひとひらで居続ける。途中で違和感を覚えた人もいるのではないだろうか。かくいう私がそうであった。なかなか溶けないこの雪のひとひらは、いったい何ものなのだ、そう疑い始めた。きっと何かの象徴でありたいがために、本来の雪の性質を超越して、溶けないものとして当たり前に物語が展開しているのであるに違いない。これ自体がひとつのメッセージなのだ、と理解しなければならないのだ、と遅ればせながら気づいたのであった。
 そうすると、この雪のひとひらの一種不死身なあり方の中に、自分というもののアイデンティティが、環境により潰されたり変貌したりせずに、ずっと貫かれるものとしてあることを示しているのではないか、と思えてきた。雪のひとひらは、女性として登場する。しかし、男性として私も、この雪のひとひらに共感するものを覚えた。人としての生き方に、もちろんここでは女性の立場がどうかということをよく描いていると思うのではあるが、私が身を重ねても不思議ではないものとして物語が展開していってよいのではないか、という気がしたのである。
 ファンタジーであるのかもしれない。けれども、途切れることなく事件が続くこの成り行きが、後戻りできない人生がそれだというのは当然であるにしても、自分というものをそこに見ることができるし、また見なければならない、福音的な物語であった、とすべきなのではないか、という気がしてならない。美しい言葉と物語の中に、自分が含まれてしまうのである。




Takapan
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