『スヌーピーの しあわせは… あったかい子犬』
チャールズ・モンロー・シュルツ
谷川俊太郎訳
角川SSコミュニケーションズ
\1524+
2005.6.
元々1962年に、初めて絵本化された『ピーナッツ』の絵本である。コミックで有名になったスヌーピーのキャラクターが、1979年の絵本では、フルカラーバージョンとなった。その日本語版であるという。その後、訳者の谷川俊太郎が亡くなったときに、また新たな表紙で発売された。本書はその前の版である。
コミックの中でも、時折登場する。「しあわせは、あったかい子犬」というフレーズで、スヌーピーがぎゅっと抱きしめられている。大人風に言えば、「しあわせとは、あったかい子犬を抱きしめることだ」ということになるし、英語もそのように訳せるように書かれている。だが、谷川俊太郎は、さすが詩人である。より短く、より印象的に、そして恐らく詩的にまとめた。「しあわせは、あったかい子犬」というふうに。
全頁が、左にその英語と、下に小さな日本語、そして右にその様子を表すような大きなイラストがどんと載っている。一冊、すべてそのようになっている。
絵の魅力は、文では伝えられない。だが文の方は、谷川俊太郎の名訳と共に、目についたものを幾つか拾って明かすことをご容赦戴きたい。
「しあわせは/自分がだれかわかってること。」
「しあわせは/ドアをあけたら好きな人。」
「しあわせは/夜じゅうついてる小さな明かり。」
「しあわせは/答がみんなわかってるとき。」
「しあわせは/自分のベッドで眠ること。」
「しあわせは/砂場で三人…ケンカ抜き。」
「しあわせは/なやみを解決してくれるだれかがいること。」
「しあわせは/特別な人を待っていること。」
「しあわせは分かち合い。」
「しあわせは/パーティーによばれること。」
「しあわせは恐怖の克服。」
「しあわせは18色の違う色。」
「しあわせは/トロフィーをかちとること。」
「しあわせは/自分が自分であるのがうれしいこと。」
「しあわせは/ドアの取っ手に手がとどくこと。」
「しあわせはそれぞれに好きなもの。」
掲載順ではあるが、私としては、少し編集して、私の観点から並べてみたい気もする。もちろん、『ピーナッツ』らしい、子どもの視点で子ども心にうれしいことも、他にたくさんある。私は、ちょっと大人心で選んでみた、と言えるだろうと思う。
上に選んだすべてがそうだ、というわけではないが、どなたか感じて下さっただろうか。その多くのものに、何かしら共通の背景があるというふうに。
シュルツは、教会で説教を担当することもあったほど、信仰生活をきちんと送っている。日本人には、『ピーナッツ』は理解しづらい、とも言われる。子ども心を忘れないシュルツの醸し出す味は、子どもの世界を描いているからか、というと、必ずしもそのせいではない。子どもの心については、それなりに分かるだろうと思うのだ。だが、聖書の思想にどっぷりと浸かり、聖書文化の中から生まれる眼差しというものは、聖書を通じてしか感じ取れないところがあると思う。もちろん、読者は一人ひとり自分なりに楽しめばよい。しかし、本書にしても、「しあわせは」に続くものが、なるほどね、と思えるものもあれば、どうしてそれが、と感じるものも少なからずあるだろうと思う。
だが私には、聖書から知ることのできる信仰というものを、これらの言葉の多くから感じられてならないのである。聖書とは関係なく思いつくものや、共感できるものもあるだろうが、ここには聖書を知る人の眼差しや言葉、感じ方というものが、十分現れていると思うのだ。
それでも、押しつけがましくなどない。全部、スヌーピーやその仲間たちの一つの姿で、ほっとするようなあり方でここに並んでいる。
山上の説教に、八福という教えがある。「さいわいなるかな、心の貧しい者たち」というような調子で、「さいわいなるかな」で始まるイエスの幸福論である。私は、シュルツがこれを意識していないはずがないと思う。そして、幸福を抽象的に定義するのではなく、すべて具体的に何かあるものを以て指し示してゆくことで、しあわせというものを、一人ひとりが感じ取ってそこへ近づいてゆくようなあり方を、ここに選んだのではないかと思っている。
そして、さらに次の頁に、読者は、自分にとっての「しあわせは……」を綴ってもよいようになっているのではないか、と考えたい。

た
か
ぱ
ん
ワ
イ
ド