『詩ってなんだろう』
谷川俊太郎/
筑摩書房
\1300+
2001.10.
その後、ちくま文庫としても出ており、入手しやすくなっている。だがこの紙の手触りの心地よい単行本がまたいい。「詩集」という感じがする。
否、これは「詩集」ではない。だが実質、詩集なのだ。谷川俊太郎自身の詩も含まれているが、多くはいろいろな詩人の詩である。最初のほうは、日本古来のわらべ歌やいろはかるた、あるいはことわざなども多い。
大きな文字で、ゆったりと書かれている。文字の大きさときたら、目に優しい「大型本」の文字より大きいのではないだろうか。それは、ゆっくりと読み上げて味わうことを求めているということなのかもしれない。また、なによりひらがなが多い。時に、この言葉は何だろうと立ち止まるようなこともある。私は「いろはかるた」のところで、そのすべてを知らないために、どこで切るのか、瞬時には分からないものが幾つかあった。たとえば「こはさんがいのくびかせ」と書かれると、知っている人はすぐ分かるのだろうが、かなり考えても思いつかなかった。
本の形式としては、こうしたひらがな主体の詩が掲げられ、その末尾に、谷川俊太郎による短いコメントが置かれている。これが最後まで淡々と続く。
その第一弾は、「わらべうた」であり、「いない いない ばあ」と一行だけの詩。そしてコメントが、「こんなこといって、あかちゃんをわらわせたことあるかな?」となっている。ただそれだけである。
谷川俊太郎とくると、私はなんといっても「ピーナッツ」で出会ったと言ってよい。小学生のとき、試写会の券が当たり、映画を観たところ、すぐに好きになった。そのコミックスを買ったら、谷川俊太郎訳だった。その後、「ことばあそびうた」を知った。どこで出会ったのかは記憶がない。とにかく面白かった。ゲラゲラ笑った。何度読んでも笑った。声に出して読むのが詩なのだ、という濃い体験をした。
本書も、「こえにだしてたのしもう」という誘いもあるし、そもそもそういうものだということは、手に取った時点で分かる。「たんか」はもちろん声に出したい。ひとつだけ「さんびか」が収められているが、これは「にほんでいちばんはやくほんやくされた」ものであるらしく、ネットでも殆ど引っかからないようなものだった(あるにはある)。
こうして見てゆくと、私はいろいろな詩に出会っていることを感じる。草野心平は大好きだし、まど・みちおの詩も随所で見かける。姉がもっていた日本の詩集のシリーズを覗いて見ていたせいか、けっこう知っているのだ。尤も、それはそれなりに古い詩人たちであり、萩原朔太郎だの中原中也だの三好達治だのといった空気の時代のものである。他にも、自分で買って読んだものもあるし、ルナールの「蛇」も知っている。そういうのが集められているのは、とても肌に合っていると感じた。
そんな中に、さくらももことか、糸井重里とかいう名も突然混じってくるから、読んでゆくだけでわくわくする。
もちろん、当然知らない詩も多い。だからまた、わくわくする。
谷川俊太郎のコメントは、終わりの方に来て、いよいよ魂のこもったものとなる。「しじんは、詩をかいておかねをかせぐけれど、おかねのために、詩をかくのではない。/かきたいから、かかずにいられないから、詩をかくんだ。詩をかきたいきもち、詩をよみたいきもちは、こころのいちばんふかいところから、わいてくる。」これは、もしかすると「書けない」悩みを書いた谷川だからこそ、しみじみと口に出せることなのかもしれない。そして、本書の本文の最後には、このようなフレーズが現れる。「詩ってなんだろう、というといかけにこたえたひとは、せかいじゅうにまだひとりもいない。」
その頁をめくると、短い「あとがき」があり、ここへきて初めてまともな漢字交じりの文章に出会えたような気がする。「詩とは何かという問いには、詩そのもので答えるしかないと思う」という言葉が、本書の本質をまとめあげていると言えるように思う。
ここでまた、小学校国語教科書を読んで、危機感を覚えた旨書かれているのが印象的だった。刃のような批判だった。これについては、直に触れて戴きたいので、ここでの引用は遠慮する。
本書を閉じて、またいろいろな詩集を開いてみたくなった。ちょうど、Eテレの100分de名著で、谷川俊太郎詩集が放送されていた。そのテキストと、自選の谷川俊太郎詩集を手に入れた。本書もまた、その流れで手に入れたものである。

た
か
ぱ
ん
ワ
イ
ド