本

『使徒的人間――カール・バルト――』

ホンとの本

『使徒的人間――カール・バルト――』
富岡幸一郎
講談社
\2600+
1999.5.

 富岡幸一郎氏は、文芸評論家であることを中心としているようである。図書館長なども努め、キリスト者であるという。
 雑誌『群像』に関わる中で、それに2年弱連載したものが、ここに著書という形で実現した。これは後に講談社文芸文庫にもなり、広く知られることとなった。私は、入手の都合の関係で、単行本を読むこととなった。
 実に読み応えのある作品だった。神学者や牧師のような立場の人が、カール・バルトについて書いたものについては、これまでにも触れたことはあった。だが、文芸評論という角度から見たカール・バルトという風景は、そうしたものとはずいぶん異なるような気がした。どう違うかを説明するのは難しいが、たとえば生きている人間の息吹が、頁から漂う、という印象なのである。
 ひとつの章が、十数頁から成っているが、論理的に構成されているようには見えず、その題も「発見」「衝動」「境界」「接線」……こんな調子で、20章までが綴られる。これ自体が幻想的で、文学的であるように仕掛けられているのだろうか。
 バルトは、神学者ではあるが、説教者でもあった。刑務所での説教の生き生きとした言葉は、新教出版社の「バルト・セレクション」で聞いた。翻訳者が亡くなったことで、その後の出版が途絶えているのが惜しい。
 本書の魅力を、要約的にご紹介するのは、私にはできないし、しないほうがよいようにも思う。文学は、これはこんな話です、とまとめられることのない、物語であり出来事であるのだから。私の心に留った辺りを引用することでお許し願いたい。
 人間は超越的な世界へと生の欲求を拡げていき、時間をどこまでも延長して永遠の化そうとする。神の名のもとに、人は自らを義とし、自らを崇拝し、自らを「神」となす。(「境界」p41)
 宗教とは自ら神のごとくなろうとする人間の欲求が必然的にもたらすものであり、そこにおいてこそ人間の不義が露呈し、人間の罪が可視化するのである。(「宗教的人間」p102)
 この他者に帰属し、この服従の力に従うとき、使徒的人間が誕生する。カール・バルトは、個々に「帰属」し、「服従」することを指して、「自由」と名付けた。(「宗教的人間」p113)
 イエス・キリストの現実存在と歴史において、神の全き自由な選びが出来事となり、神は人間と共にあり、人間のために存在する。(「原歴史」p186)
 バルトは、その神学の中核に、したがって「一般的なものの中に危険が潜む」(一般化は危険なり)という言葉を置いた。……もし神的な抽象に目を向けるならば、それは「死せる神」であり、人間の意識の自己投影としての偶像でしかない。(「原歴史」p187)
 ユダは、いかなる矛盾のうちで自己破滅へと至ったのか。それはすでにあきらかだろう。彼は、自分自身は主ではなく、むしろ一人の唯一の主のしもべでしかない、そのような使徒として召喚されながら、自らの思想と決断を優先させたからである。(「引き渡し」p213)
 バルトは、ヒットラーという独裁者の出現によって引き起こされた悪夢のような歴史の現実を、サタノロジー(悪魔論)や、哲学的な無神論のように苦痛のないものにしてしまう、抽象的な至便を斥けた。(「虚無的なもの」p228)
 神学における倫理学の問い……は……人間であるということは、神の前での応答責任をとることを意味する、その「自由」の本質へと接近することだ。(「天使論」p284)
 聖書は自殺を禁じてはいない。……あなたは生きなければならないのではなく、生きることを許されているのである! 生は神から与えられた自由である。生への意志は、この許された者の意志である。自由における意志である。(「倫理」p298,299)  自由に動き、また動かされるということは、まさに、神の言葉によって生きる教会の場所である。さらに遡って言えば、それは、神のわざであるインマヌエルの歴史が神の言葉となる場所でもある。(「虚空」p328)
 使徒的人間は、この「虚空」のなかに生き、この「吹く風」のなかを行き、そして死ぬ。その生と死の地上の無数の連鎖が、全ての時代と世紀とを(来たるべき世紀をも)貫いて、われわれ人間の、この有限な存在にとっての真の自由の所在を示す。(「虚空」p328)
 本書は、「使徒的人間」という、ひとつの人間像を描こうと試みたものである。「あとがき」で、著者がそのように語っている。使徒とは、「イエス・キリストの地上での出来事に、二千年前に立ち合った人々である。」だが、それは過去のあの遠い物語であるに留まるのではない。こうした引用の中に引き込まれた人がいただろうか。これは私のことだ、と胸に迫った人がいただろうか。いたならば、「これからの時代の新しい人間像」として、その人は神の自由を与えられたことに、なるのであろう。こうした問いかけは、聖書そのものが私たちに向けているものであるはずである。それを、『群像』という文芸誌に、1997年から21回にわたって連載したエッセイで伝えたところに、筆者の力量を覚えるし、講談社という出版社の器の大きさも感じた。キリスト者の生き方に関心があり、文学は好きだが難しい神学書は拒みたい、という人には、恰好の本であると思う。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります