本

『現代に生きる使徒信条』

ホンとの本

『現代に生きる使徒信条』
パネンベルク ボルンカム コンツェルマン K.ラーナー他
新教出版社
\450
1970.1.

 使徒信条について、半世紀前にドイツで放送された講演を、一冊にまとめたものであるという。なかなかのメンバーが名を連ねており、それだけにまた、それぞれが別個の独立した作品となっている。使徒信条を少しずつ区切り、その一句ずつを各自が担当し、講演するというものである。だから読者は、一連の使徒信条理解を期待してしまいそうだが、それはやめたほうがいい。というより、できない。あまりにもそれぞれの特色を出し過ぎて、いったいこれで使徒信条ひととおり考えたのかという読後感を懐きそうである。
 もちろん、一般向けの放送である。学術的なものではない。だが、あとがきで触れているように、役者がドイツの学者に資料がないかと尋ねたときに、このうちの一つの講演を勧めたというのである。実はそれは、私も個人的に、これはいい、と思ったものだった。それは最後の、永遠の生命を信ずるという箇所についての、ゲルハルト・エーベリングのもので、ここにある時間論は確かに目を見張った。永遠とは何かについての、哲学的な深みのある話だった。私たちが時間をどう認識するのか、神についてはそれはどうか。もちろん神の心をすべて人が理解するという傲慢を示しているわけではない。永遠の生命というものが、イエスへの信仰によって今すでにそれにわれわれがあずかっている生命である、というあたりにやがて落ち着いていくのだが、なかなかの説得力なのである。これは機会があればどなたにもお勧めしたい。
 とはいえ、本書は古い本である。入手は難しいかもしれない。出回っている古書は、わずかに安いものがあるほかは高価な値がついているから、早いもの勝ちとなるであろう。
 陰府にくだるところでは、地上の悲惨な拷問を受けている人々の中に神がいるというような、はっとさせられる表現もある。これは私たちが何らかの形で必ず受け継いでいかなければならない視点だ。半世紀前の遺物にしてはならない。むしろその頃だからこそ、ドイツではユダヤ人迫害の当事者としての痛みがあったはずである。その頃の切実な思いが薄れ、忘れ去られていくような時代の中で、私たちはその息吹にもう一度新たに考えさせてもらわなければならないとさえ言えるだろう。その意味では、どうかその頃の本をいつまでも胸に抱き言葉を噛みしめていたいと思うのである。
 教会を信ずるくだりでは、教会が建物でないことはもちろんのこと、場所ですらなく、「出来事であり、行為である」とまで強調している。教会というものが社会に根付き社会基盤とさえなっていたはずのドイツでさえ、こうなのである。日本においても、教会が出来事を起こしていくものでなくて、何であろう。
 使徒信条は、キリスト教の信仰内容を簡潔にまとめたものである。それは聖書そのものではないが、人間が知恵と祈りをこめて精一杯まとめあげた信仰箇条である。その一言ひとことを検討し、調べ、黙想したひとつの成果がここに、小さな本となった。味わわなければならないことが凝縮されているとも言える。これらの問いを心に響かせることなしには、キリスト者はいつの時代でも、一歩も動けないのではないだろうか。
 ひとつ、翻訳の労については敬服するほかないのだが、訳が時代的に堅すぎて読みづらい。関係代名詞を悉く「……ところの」で後からひっかけひっかけ訳してあるので、枠構造を意識しながら読んでいかないと、主語と述語の遠さももちろんだが、何を言おうとしているか輪から辛い。まず主文の主張を示しておいて、そこから付け足して修飾するというような文章で訳してあったら、きっともっと読みやすかったことだろう。そこが残念な気がする。




Takapan
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