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『死と再生 2009年上智大学神学部夏期神学講習会講演集』

ホンとの本

『死と再生 2009年上智大学神学部夏期神学講習会講演集』
宮本久雄・武田なほみ編著
日本キリスト教団出版局
\2800+
2010.4.

 思い立って、「死と再生」というテーマの本はないかと探していたら、ヒットした。神学のシンポジウムや講演会の原稿が、時々このように本になっているが、新刊ならばまだしも、以前のものはなかなかメジャーなところには出てこないものである。上智大学というから、カトリック畑のようであり、またそれでよいとも思い、取り寄せてみた。
 巻末に、こうした本は商業路線ではないがよくぞ出版してくれた、というような感謝の言葉が載せられていた。確かにそうかもしれない。すでに古書市場に出ていたのであるから、どういうルートでこのような美しい本が来ていたのか、それへの詮索はしないでおこう。ただ、とても良い状態の本が、文庫本もこれではいまは買えぬだろうと思われるほどの安価で回ってきた、という点を、素直に喜んでいようかと思う。
 それはそうと、内容だが、必ずしもカトリックサイドだけの集まりではない。とにかく、「死と再生」がテーマであり、いろいろな角度から語られて、厚みのある論集となったと思う。さらに言えば、「死と生」というテーマでもよかった。生き死にについて、活発な講演が展開する。ここに、論者は出さず、出された講演のタイトルだけを列挙してみるとしよう。
 生と死――イエスの神の国
 氏の現実とヨハネが告げる永遠の生命
 詩の神学――カール・ラーナーへのオマージュ
 聖なる過越の3日間に祭儀に表れる死と生
 死の恐怖と他者の発見
 いのちの歳時記
 ライフサイクルにおける危機と新生
 日本の思想における死と再生――いま、過去から将来に向けて
 一遍とアシジのフランシスコの生死観
 無神になって咲く――「花」に極まる世阿弥の死生観
 自分の場を離れること――浅川巧と植民地期朝鮮
 五つ目の講演で、「我々の時代は、生を愛しているのではなく、死を恐れているのである」との指摘や、「一人の人間を愛するということは、私はあなたを死なせはしない、ということである」との希望が掲げられているのは、少し心に残った。そうして、「他社が存在するから、死は意味を持ち、我々は復活の希望を持つことができるのである」として、「他者への愛において、私達に永遠が約束されるのである」と高らかに歌うのが、慰めとなった。
 こうした講演の原稿の最後に、「シンポジウム「死と再生」」が、やはり一つの講演分くらいの長さで置かれている。そこでも、たとえば「現代に生きる私たちは、冷酷な論理によって構築された社会にひとりで立ち向かわざるを得ないような状況に追いつめられて、孤立無援になってしまっている」という指摘があり、重く響いた。しかしこのとき、「うつ病」や「引きこもり」について、それを殆ど「仮死」や「瀕死」といった言い方で言い切ってしまっているのは、少し冷たいのではないか、と思った。2009年の頃だから仕方がないのかもしれないが、いわゆる「引きこもり」という現象を完全に否定的に断罪するような言い方がここでなされているのは、認識が一方的ではないか、と感じた。また、少し離れたところでは、今度は「ゲームの世界で育つ子供たちが人とのつながりが育てられなくなってしまっている」というような言い方と共に、かなり一方的にそれを悪と定め、「精神的な死」と結びつけるような暗示の仕方をしている。
 キリスト教は、歴史の中でしばしばそのようにして、一定の立場や様子にある人々を断罪してきた。つい100年前までは女性を政治に近づけなかったし、半世紀前までは、同性愛は罪と決めつけ、迫害に迫害を重ねていたのである。そしていまようやくそれらが間違っていたという認識が現れ始めると、今度は、キリスト教こそ女性の権利を支えたとか、LGBTQの味方だとかいういい顔をしようとする。必要なことは、まず自分たちが何をしてきたか、ということではないだろうか。同じように、ここでも「引きこもり」を救いようのない死だと口にしていることを知るわけで、それはまた、いまの私たちもまた、誰かを不条理に傷つけている可能性を教えることになろうかと思うのである。
 シンポジウムという場では、案外そうした「偏見」と呼んでもよいようなこと、しかし決して一つひとつの講演や論文では表に出さないような「本音」が、つい零れてくるのではないか。そう気づくと、類書においても、シンポジウムの発言には、もっと注目すべきである、ということを教えられた気がするのである。




Takapan
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