本

『使徒教父文書』

ホンとの本

『使徒教父文書』
荒井献編
講談社文芸文庫
\1500+
1998.3.

 新型コロナウイルス感染症に支配された形のしばらくの巣ごもり状態の中で、本を買うのも諸事情で抑えねばならない中、書棚の古典を開くのにきっと相応しいと思い、拾い出した一冊がこれである。もちろんかつて読んでいた。が、それはいつのことだろうと思われるほど昔であった。確か、発売されてすぐに購入したのではなかっただろうか。
 聖書は聖書で解釈すべき。その通りである。しかし、プロテスタントが開かない、いま「旧約聖書続編」と読んでいるものだけでも、一読すると、新約聖書の世界がさらに豊かに色づいてくるような気がするものである。本書のほかにも「外典」と呼ばれる類の文書がたくさんあり、高価な全集として居並ぶものはさすがに入手しづらいが、それが講談社文芸文庫で手軽に読めるというのは嬉しい。本書はその「外典」よりさらに後の時代になりそうな、教父時代の文書ということになりそうだが、実は必ずしもそうではない。新約聖書に収められた文書の中にも、かなり遅い時代に成立したのではないかと考えられているものがある。それで、本書の中にある文書の中には、新約聖書の或る文書と同じか、どうかするとそれよりも早く成立したのではないかと思われるものもあるのだという。
 ここにあるのは「十二使徒の教訓(ディダケー)」「バルナバの手紙」「クレメンスの手紙(コリントのキリスト者へ1)」「クレメンスの手紙(コリントのキリスト者へ2)」「イグナティオスの手紙」「ポリュカルポスの手紙」「ポリュカルポスの殉教」「パピアスの断片」「ディオグネートスの手紙」「ヘルマスの牧舎」である。
 それぞれについて、巻末に良い解説が施されている。読む人にもよるであろうが、解説を先に読んでおくと、見通しがつきやすい。どういう点に注目しながら読んでいくとよいのか、のガイドになるからである。聖書については読み慣れていて、多くの記事について聞いたことがある、という程度はクリスチャンなら口にするだろうが、さすがにこうした聖書外の文書については、よほど研究書などに親しんでおかなければ分からない。読み慣れないはずである。しかも研究書での言及や引用なども、ほんの一部、断片的に過ぎないわけだから、文書として通読するというのは、また全く違う印象をもつものであろうと思われる。その意味でも、どこかで、まるで小説でも読むようにでも構わないから、一度は触れておくとよいのではないだろうか。
 編者は荒井献。訳者には、佐竹明・小河陽な・八木誠一・田川建三、そして荒井献という、新約聖書学について名だたるメンバーが並んでいる。それぞれが、こうした文書を踏まえた上で、ご自身の聖書研究を続けている方々である。訳の上での問題はきっとないだろうと思われる。価格は文庫としては高価だが、500頁近くあることを思えば、決して割高でもない。機会があれば手許に置き、ラインでも引きながら読んでみることをお勧めする。
 しかし、これが聖書というわけではない。いかにもお説教臭かったり、「外典」ほどではないが奇想天外な展開があったり、また、非常に修道生活に傾いていて、キリストの教えはこうだっただろうか、と首を捻るものも少なくない。とにかく殉教こそ尊いの一点張りで突き進む話にはなかなかついて行けない気もするが、当時の時代状況がそうだったのだという緊迫感を想像すると、これは決して無下に扱ってはならないものだと感じる。
 中には、新約聖書に含めるべきではないか、と議論されたものもあるという。それを思うと、新約聖書の中に収められた時、キリスト教の運命はひとつ定まったのだったという見方が可能であろう。もしもであるが、本書の中にある文書が新約聖書の中のひとつとして採用されていたら、私たちの信仰はずいぶん違ったものになっていたかもしれないし、世界の歴史も変わっていたかもしれないと思う。その意味でも、新約聖書の編集というのはたいへんな事件であったのだし、また本書の文書は、歴史になり損ねた文書であるというふうに言えるかもしれない。
 もちろん、新約聖書の表現や思想を、より深く理解するためにも、このような背景事情は大いに役立つものである。ひとつ距離を置きながらも、ここにある古代人の信仰への真摯な生き方というものについては、一目置いて、学ぶ姿勢があってもよいのではないかと感じる。尊敬に値する心として、向き合ってみることは有意義ではないだろうか。




Takapan
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