本

『使徒パウロの神学』

ホンとの本

『使徒パウロの神学』
J.D.G.ダン
浅野淳博訳
教文館
\6300+
2019.3.

 何しろ厚い。索引まで含めると974頁を数える。百科事典のようだ。よくぞこれだけの叙述を、とも思うが、訳者も大変だ。淀みなく、非常に読みやすい訳をこれほどの著作全体にわたりキープできるということに敬服する。
 さて、新約聖書学について、近年旋風を巻き起こしている一派があり、その代表格の一人がこの著者、ダン教授である。日本語に訳すとなんだかつまらないようだが、「パウロに関する(orパウロ研究の)新たな視点」という運動の重要な一冊であることは間違いない。原著は1998年に刊行されている。v  パウロをキリスト教側の最右翼に位置させ、ユダヤ教と真っ向から対立しているようにイメージするのが、従来のキリスト教側の前提のようにされていた。事実パウロ自身の手紙でも、使徒言行録の記述でも、パウロはユダヤ人たちに命を幾度となく狙われ、パウロもユダヤ教の意識の混じった福音理解と徹底的に戦っている。パウロはユダヤ教を敵としているという図式は当然のことのように思える。律法主義に抗している姿が目の前に浮かぶかもしれない。だが、律法そのものをパウロが敵としているのだろうか、という問いかけが一つの中核を為している。だから、2018年に刊行された聖書協会共同訳が、思い切って最近の聖書学の動向を加味して、「イエス・キリストを信じる信仰」というようなこれまでの訳を、「イエス・キリストの真実」と訳して、説教を変えてしまう勢いすらある中で、伝統的な考え方のもつ意義を丁寧に語っている場面がある。
 本書ではローマ書を軸にして論じていくが、そのことの意味のためにもまた多くの頁を割くなど、周到な構成を準備して執筆されている。だからこれだけ膨れあがったのであろう。そもそもパウロ神学をどう取り扱うか、その辺りから始まり、本書は次に「神」「人類」に触れる。人間には、ソーマ・サルクス・ヌース・カルディア・プシュケー・プネウマといった様々な捉え方があり、パウロを理解する中で当時の文化的背景を十分に私たちが把握しておくべきことを教える。
 次は「アダム」を扱う。パウロの考え方を問うのに必要なポイントの一つだ。そこに「罪」が始まり「死」を受けねばならなくなった。またそれを改めて指摘するものとして「律法」が与えられた。パウロが律法をどのように理解していたのか、また手紙の読者に理解させようとしていたのか、これは著者の論の中でもとりわけ重要な部分となるであろう。
 そこからの救済をもたらす「イエス・キリストの福音」は、「人としてのイエス」「十字架のキリスト」「復活の主」を通して示される。また、キリストは先に「知恵」としてずっとあったことと、やがてまた来るという信仰、つまり再臨の信仰を俟たねば救いは完成しない。そこへのターニングポイントが、「信仰による義認」の問題であった。
 まだこれで目次の半分にまで来たに過ぎない。この後、イスラエルとは何かを明らかにするところもまた興味深く、イスラエルの救いをどういう意味で重視して論じていたのか、考察する。その後は教会、すなわちキリストの共同体の組織と聖餐についてと、それからキリスト者の倫理の問題にに触れて、厳かにパウロ神学全体を振り返って叙述を終える。
 これだけの精緻な叙述であると、読者としては何を押さえていけばよいのかが分かりにくいことが多いが、本書では、しばしば「要約すると」という段落を見かける。これは有り難い。そこで一旦立ち止まって、ゆっくり味わい捉えておくと、何を読んだかという点でも確かに足跡を遺すことができることだろう。そこに付箋をつけておく、というのもひとつの読み方であると思う。また、最終章25章の「パウロ神学への結語」だけでも丁寧に読んでいくとよいのではないかと思われる。
 パウロは確かにユダヤ教のエリートであった。それがキリストと出会ってすっかり変わり、ユダヤ教と対決するような人生が始まったことで、思想的にもユダヤ教と対立しているのは当たり前だと誰もが思うようになったのではないか。パウロの思想そのものが、ユダヤ教と対立しているというのは、確かに短絡的であるような気がする。パウロの手紙を読むと、異邦人社会へ、ユダヤ文化を懸命に説明しようとしているのを感じる。イエス自身も、律法を単に廃棄するために来たのではない、と宣言していた。ユダヤ文化に根差すのでなければ、福音の木は枯れてしまうのだ。ただ、パウロはキリストとの出会いを果たした。パウロは常にキリストと共にあり、キリストが自分の内にあって生きて働いている意識をもっていた。
 こうして見てくると、ユダヤ文化の中にあるパウロを意識することは、それほど奇異なことでもないように思えてくる。細かな点を追及すると、様々な解釈や説が採られてることで、反発をも買うことだろう。しかしそれはそれで、指摘されている論点や論拠といったものは、考察のための豊かな示準となりうるものではないだろうか。分厚さと価格からして備えておくことは一般に難しいかもしれないが、そこからも指摘できるのかといったヒントにも溢れており、読みつつ付箋を挟んでいくという形にしておけば、また繙くときに役立ちそうである。
 これだけの分量のある本、いまのところなかなかネットでも書評が見当たらない。後から道を行く者のために、優れた方がレビューなり反論なり、もっと活発に意見を見せてくれると有り難いと思った。この私の感想などは、全く頼りにならない程度のものでしかないのだが。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります