本

『思春期の危機をどう見るか』

ホンとの本

『思春期の危機をどう見るか』
尾木直樹
岩波新書998
\819
2006.3

 六年前に、著者は同新書で『子どもの危機をどう見るか』を世に問うている。あいにく読んだかどうか記憶が定かでないが、著者の別の本については共感を覚えたこともある。
 かの本では、学級崩壊が大きなテーマであったと聞くが、今回は、それはなりを潜めている。しかし、社会全体が、思春期についての理解を欠き、成長させる力を失っていると語る。IT化に伴う子どもたちの変化に、対応しきれていないというのである。
 著者が最終的に提言することは、六年前と大きく変わるものではない。しかし、インターネットの普及や社会的経済的背景から、子どもたちが――たいていは無自覚的に――抱える問題に対して、おとながどう向き合っていくのか、問い続けようとしているなど、深刻さは増しているようだ。
 そのために、本の中程で、佐世保における小学生児童殺害事件の例を取り上げており、その問題には深い関心を寄せる私は、これまで開示されていなかったことにも触れてあるように感じた。いや、たんに私が気づいていなかっただけなのかもしれないが、学校が直ちに通常登校をさせているなど、今にして思えば「なぜ?」という措置を平然と行っているわけだが、四年生のときの担任教師に会いたいという子どもたちの声に対して、すでにその小学校の教員ではなかったその元担任教師に会わせるようなことを、学校はついぞ許さなかったという。ほんとうに、「なぜ?」である。
 これでは、著者が掲げる「子どもの目線」というものが、全く踏みにじられているとしか言いようがない。教育関係の大人は、必ず言う。「私たちは懸命に努力しているんです」と。私も、直にその言葉を聞いたことがある。なんともお粗末なことしかできていない時に限って、そのように言うのである。そして、そこには自己満足しかないのである。
 子どもの目線を無視したものが「教育」のプロとされているのだから、子どもの危機に誰がどのように関わっていけばよいのか、分からなくなる。
 心傷ついた若者たち、子どもたちを、どのように受け容れて育んでいけばいいのか。現場教師をも務め、教育問題を様々な角度から追い続ける著者もまた、思い悩む。そう、教育に、「こうすればいい」という決め手など、ないのだ。あるように言う者は、断言してもよいが、間違っている。ひとりひとり違う子どもたち、ひとりひとりの人格に向き合っていくときに、画一的な方策など、あろうはずがない。ある場合には、カウンセラー自身が悩み答えられなくてもよいのだ、というような言い方をする著者は、子どもという立場で出合ったその相手に、最大限の敬意を払っているように見える。
 公共広告機構のコピーである、《命は大切だ。命は大切だ。そんなこと何千何万回言われるより「あなたが大切だ」。誰かがそう言ってくれたらそれだけで生きていける》を、この本も一度引用しているが、ここに、私たちの立つべきスタンスの一つが、確実にある。
 社会の間違いなく一員である子どもたちと、如何にして共に生きていくか。問題は、子どもたちの側にあるのではなくて、大人たちのものであるということだけでも、せめて気づいて誰もが動き始めたら、と願わざるを得ない。




Takapan
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