本

『自分を知る・他人を知る』

ホンとの本

『自分を知る・他人を知る』
賀来周一
キリスト新聞社
\1500+
2016.4.

 交流分析を土台に、という心理学の用語が付けられているだけで、表紙のイラストもなんとなく心理描写をしているかのような謎を秘めたシンプルなデザインで、どこか抽象的な雰囲気を醸し出しているように見えるかもしれない。一応これは、「キリスト教カウンセリング講座ブックレット」のシリーズ第7巻としてある。170頁あるから、ブックレットとしてはやや厚いものとも言えそうだが、1500円払うのはちょっとためらいかもしれない。
 だが店頭で実際にぱらぱらとめくっただけで、たわしは本書の良さを感じた。すぐさま購入して読むことにした。心理学については素人だが、関心があって昔からそこそこのことは聞き知っていた。だから心理学の本とあらば、書いてあることはいくらかは分かるものだった。が、これはキリスト教カウンセリングがメインである。クリスチャンの心理を描くというものは、実はさほど多く見られないタイプなのである。教会生活をするということはどういうことか、そこでどんな問題が起こり、また解決できるのか。いやいや、祈るべきでしょう。信仰で癒されるんですよ、と声をかけてくる人がいるかもしれない。そうだろうか。私はそれが解決を遠ざけている一つの理由であるかと思っている。つまり信仰が絶対的な地位を占めるとなると、その信仰が暴力にさえなって、強い立場の者が優位にもちかけ、その意志が実現されるように仕向けていくことになる。それは牧師のような人が、というふうに限定している意味ではない。語調の強い信徒や執事がいるものである。知識や経験が少しあると思い、自分の思うとおりになれば最善だと信じて疑わない。それが通らないとなれば面白くないとして文句を言ったり、言わずして誰かを呪ったりもしかねない。教会は、心理学でなら常識的に解決することに、あまりにも無関心なのではあるまいか。
 本書も、最初から教会を舞台に話を進めるわけではない。地道に、交流分析とはどういうふうに人の心を捉える素地をつくるものなのかを丁寧に解説する。この解説は、一般書に見られないくらいに親切で丁寧であると思う。パーソナリティの成り立ちを、確かにあまりに単純すぎるほどに分類するものだという気がしないでもないのだが、しかし必要以上に複雑にしないためにも、最低限のレベルで分類を試みるというのは、実は必要な手続きであるのだ。
 個人的なパーソナリティの成り立ちを確認すると、次はコミュニケーションのタイプである。一つひとつの心理学的用語が、実例から説明されると、たいへん分かりやすい。こうして一段一段階段を昇るように、心理学の考え方を読者に提供し、周知のものとしてゆく。
 ストローク刺激というのは個人的に面白かった。こうこうこういうふうに思うものだ、というような説明もあるが、とてもよく分かる。私も屈折した心があるし、いくらか関心があって調べてきたこともある。また、なによりも信仰に至るまでにもずいぶん悩み、哲学的な事件を経てきた。心理学の用語で説明されてきても、自分が経験したあれのことか、他人を観察している中で気づいたあのことか、とほくほく感じながら頁を捲る。
 個人的な性質からコミュニケーションときて、時間の中での考え方から人生の捉え方と次第にスケールが大きくなるが、とにかく一番のトラブルの要は、人間関係である。人間関係すら、心理ゲームという捉え方によって、他人をどのように見てどういう関係を結ぶのかという、心の裏を読み込んでいく。これもまた、私は個人的に面白いように分かる説明であった。私が相当に汚い心であるからなのだろう。
 最後の40頁が、教会に的を絞った記述である。しかしこれまでの心理学の理解があればこそのことである。ずっと基礎練習をしてきて、いよいよ目的の試合に入ったというような感じがする。「信仰とパーソナリティの成熟性」と記したここは、教会関係者は読まなければならない。これを知ることなしに、牧会はもちろん、教会の人間関係を改善することはできない。いや、信徒が皆これを知っているならば、そしてそれを理解したならば、教会の悩みの半分以上は消え去ることであろう。ここで言う「未成熟なパーソナリティ」が、如何に多いか、私は幾つかの教会を見てきた中で、断言できる。未成熟どころか、パーソナリティ障害であるのに自らそれに気づかず、無邪気に教会を破壊するということができるような人も実際いた。信仰の方が心理学よりも上位にあるからと耳を貸さない人もいるかもしれないが、著者も当然そのことを気にして幾度か声をかける。人間の集まりである限り、心理学の知恵は役立つのだ、と。それどころか私に言わせてみれば、信仰という隠れ蓑を用意しておけば、自分が根拠なく正しく偉い存在になったのだという勘違いが、けっこうあるのだと思う。イエスが罪を赦し、自分はもう何をしても正しくなったのだ、という思い込み、潜在的にも多いと思う。正しい者どうしが意見を異にしてぶつかるということだから、厄介である。世間よりもむしろ問題解決の議論にならない可能性が高い。
 ずばり信仰の用語を用いて、教会という場で実践的に即座に役立つような場面をいくらも提供してくれる。教会に必要な教義ももちろん心得ている。その上で、いや、だからこそ教会で起こる厄介な問題となるのだから、心理学が役に立つならば使えばよいのである。むしろそれでも信仰が解決するのだなどと、まさに典型的な心理学的問題を抱えたような人々がぶつかりあったり、自説を貫こうとしたりして、教会とは実は面倒な人々の集まりでもあるのである。そもそもそうしたパーソナリティに問題を抱えた人々が集まってくるのが教会だという暴論さえ吐きたくなるほどの実態なのである。
 心理学を振り回しているわけではない。ちゃんと最後には、愛と自由の問題に辿り着いて、そこに最大の希望を抱くようにしている。きわめて福音的でもあり、またこれを用いなければ損であること間違いない、そのような知恵なのだと思う。教会に困った人が幾人かいたならば、教会必読の書として各自に買ってもらい、これをテキストに学び会をするか、あるいは各自で必ず読んでもらうというようにすればよい。自分が如何に未成熟か、自分の恥ずかしい姿をそこに見る経験をすることだろう。そもそも悔改めというのは、そのような自分の姿を突きつけられた末に起こることであるはずなのだが、近年悔改めも罪も知らずに、そのままでいいよとにこにこ教会に迎えられて洗礼を受けてしまうという例もあろうかと思う。自分の姿を聖書の中に見出すというのももちろん適切な信仰の過程であるのだが、これもない場合がある。自分の姿を聖書に見るという基本的なクリスチャンの常態さえ覚束ないならば、読みやすい本書を見ていくうちに、これは自分の姿だ、ときっと気づくことになるだろう。聖書の場面にそれを見出すよりはずっと容易であるはずである。そして、それに気づかせてくれるのも、私は聖霊なのだろうと思う。安心して、自己認識に挑むとよいだろう。
 本書を信徒誰しもが読む教会は、平和があり、新しい人もつながってくるだろうと思う。そのような魅力のある交わりのできる教会に、変わるからである。




Takapan
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