本

『白い病』

ホンとの本

『白い病』
カレル・チャペック
阿部賢一訳
岩波文庫
\580+
2020.9.

 チャペックといえば、「ロボット」という語を生んだ人、というくらいしか知らなかった了見の狭い私にとって、この作品は、心を一気に引き込まれるものとして強烈に出合ったような気がした。
 脚本である。50にもならぬうちに亡くなるチャペックであるが、その晩年に発表された戯曲であるが、実に面白かった。いや、そんな言い方は失礼にあたるかもしれない。ここにあるのは、至って真摯な、そして命を懸けた言葉のせめぎ合いである。
 白い病が流行する。治療法がなく、死を待つしかない。国の機関はお手上げだったが、そこへひとりの医師が現れる。ガレーン博士という。自分は治療法を知っているという。かなり交渉して、治療費を払えない貧しい患者たちを宛われるが、その部屋の患者が見事に回復する。
 このガレーン博士、金持ちは一切治療しないという。貧しい人だけを救う。感染した男爵が博士になんとか治療してほしいと願う。莫大な金を払うという。博士が平和を望んでいると聞き、その金で新聞社を使って平和が主張できるともちかける。だが男爵は、武器や弾薬の製造に関わっていた。博士は、それを止めて戦争の中止を軍にもちかけることが治療の条件だという。
 元帥はもちろんそんな話を受け容れるはずがない。博士は狂っていると言うが、白い病は確実に人々を襲っていく。他方、戦争は大きな抵抗に遭い、戦局が悪くなる。博士は和平と引き換えにのみ、治療法を明かすと言うが、元帥もまた白い病に冒されることで、苦悩する。
 人類は、戦争という戦いと、疫病という戦いと、どちらを採るかを迫られた。そして元帥が、博士の平和のほうに従うのかと思いきや、土壇場で大どんでん返しが起こる。
 これだけでも十分ネタバレだと言えるだろうが、さすがに最後の場面は言えない。
 白い病というのは、特定の病気を指しているのではないが、西欧社会ではそれはペストのことだろうと想像がつく。しかしペストは色が黒く化す、黒死病と呼ばれた。それに反して白いというのは、白人の衰退を示しているのだという。チャペック自身が、戯曲の「前書き」というものでこうした仕組みについてよく説明してくれているし、本書にはその前書きを本編の後に載せているので、読み終わってから味わうほうが、確かによいような気もする。また遺稿となった「作者による解題」も本書には掲載されていて、切ない。従って本戯曲の意味するところは、実は作者が誤解のないほどにきちんと説明がなされているのである。
 それにしても、戦争中止を条件に、白い病の治療をするというこのガレーン博士、医療を素材にしたテロのようなことまでするが、もちろんこれは当時の医者たちから大いにクレームを受けたのだという。しかし、問題はそういうことではない。貧しい人はそのまま救い。金持ちは、戦争を止めるために何かができる人々であるから、戦争反対の力となるのでなければ、治療は一切しないのだという。戦争をしていくと、貧しい人の命が奪われることになる。命を救うための方策がこれなのだ、と博士は譲らない。
 ある意味で正しいこの博士の主張が、それでも違うと私たちが叫びたくなるのはどうしてだろう。治療を断れば、軍人や金持ちが死んでいく。そういう社会を望んでいるのは間違いないが、それもまた命であるとするならば、貧しい人々の命を救うために有力な人々の命を蔑ろにしてよいのかどうか、命の選別であることは間違いない。
 でも、そこが本作品の中心点であるのか。軍人が悪なのか。だが元帥は最後に、戦争よりも病の問題に傾いていたではないか。
 観客や読者は、このように登場する医師や軍人、商人、それからここまで紹介していないが、一般家庭にありがちな親父のいる家族などをよく描いており、こうした人々それぞれの愚かさや欠点を鑑賞している。ずっとこうしたキャラクターの激しい思いこみや、意固地な態度を観察して物語を見守ってきた。
 ところが最後に、この観客や読者自身が、物語に巻き込まれる。そしてそれが一番深刻な結末であり、絶望をもたらす主体の描き方となってしまうのである。ここのところを感じ取らなければ、作者の意図も無意味なものとなりかねないし、私たちも得るところがない。
 もちろん本書は聖書とは違うが、聖書の狙う構造も、きっとこのようなあり方なのだろうと理解できるので、私には、本作品の恐ろしさと大切さが、よく分かるような気がする。他人事として味わう文学には命がないのだというところにまで、思いが走る。エンターテインメントではない、文学というものが、何であるのか、そこに思いを馳せることができるものである。
 新型コロナウイルスの感染拡大のために、非常事態宣言が出されている中で、翻訳が行われたという。これはいま翻訳する仕事だと訳者が使命感に燃えたらしい。訳者のその勇断に、心から感謝したい。




Takapan
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