本

『「失敗学」事件簿』

ホンとの本

『「失敗学」事件簿』
畑村洋太郎
小学館
\1365
2006.4

 事件が起こる。凶悪犯の仕業というのでなく、何か「失敗したか」と思わせるような事態である。「事故」と呼んでもいい。社会は――報道もそうだし、私たちも――どうするか。責任は誰にあるのか、と追及を始めたくなる。いわゆる「犯人探し」である。誰が責任を負うのか。企業の不祥事であれば、トップが入れ替わる。それで、同じ失敗は犯さないようになるのか。
 私は、そのことにたいそう懐疑的であった。だから、中学校がぶざまな事故を私の子どもに関して起こしたときにも、たんに責任をどうというつもりはなかった。どうせ、その教師には能力がないのである。能力がないのであれば、せめて、どのような仕組みに従って考えれば、被害を最小限に抑えられるか、マニュアルが整備されていなければならない。ぶざまと呼んだのは、そのマニュアルにすら従えない、教師ならびに教頭などのスタッフの存在であった。マニュアルすら守れないで平然としているようであれば、もはや危機管理の話ではない。
 はたして、同じ失敗は繰り返された。それでも、中学校には適切な反省がなかった。むしろ、自分たちはよく頑張っていたのだと認めてくれ、などと言った。もう、哀れなほどである。大きな事故がこの中学校では繰り返されている。たぶん、隠されている事故を含めると膨大な数になるだろう。ハインリッヒの法則というのがこの本によく説明されているが、一つの重大な事故の背景には、千を数えるほどの背景が存在するというのである。
 世で、マスコミに避難される、事故や不祥事の当事者たちについては、どうだろうか。著者は、その「失敗」の研究の故に、様々な方面から意見を訊かれる、ある種の権威である。事件や事故の際には、コメントをマスコミに求められたり、調査委員会に呼ばれたりする。だが、マスコミはまた、世間の視聴者などに受け入れられる記事を作るのが通常なので、時に責任問題にかまけ、その事故が二度と起こらないようにするためには何をどうするかという点を強調しないことが多い。
 著者は、具体的な経験から、そのことを指摘する。
 事故に対して、冷静に分析する仕事は、大変である。ある意味で、感情で片づけたほうが簡単である。だが、感情で処理した事故は、実は何の解決にもなっていないのであって、同種の事故を防ぐ力はない。科学的に考えても、ない。
 人間は、失敗をするものである、という前提。人間には原罪がある、という見方と重なって響く。その上で、安全を守るシステムを構築しなければならない。それは人間のすることであって100パーセント安全とは言えないかもしれないが、なしうる最前の手だてとなる。それでも失敗は起こりうるものではあるが、私たちは、できるかぎりの手を打たなければならない。そのためには、トカゲの尻尾切りなどではダメなのである。
 危機管理とか、安全とかいう声が強くなってきている。学校や、地域、子どもたちを見守る社会について、そういう要求が特に強い。だが、そこにこの「失敗することがある」「失敗する原因は何かを追究する」といった視点が、どれほどあるか、考えてみるといい。するべきことが、見えてくるだろう。安全を考えなければならない、と思ったら、どうかこの本を読んで戴きたい。この知恵を用いて、対策を講じて戴きたい
 私はこの本に出会えてよかった。私が思い描いていた、事故への対策というものが、間違っているものでない、と支えられるような思いで読み進むことができたからである。




Takapan
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