『詩を読む人のために』
三好達治
岩波文庫
\505+
1991.1.
1964年に亡くなった著者については、私も学校の教科書でしかお目にかかることはなかった。ひとりの詩人として多くの詩を産出したのみならず、こうして先人や仲間たちの詩について、広く知らしめる本を出していたということは、ありがたいことである。だがそれは、勇気が必要なことなのかもしれない。
本書の執筆は、恐らく1952年と思われる。その2年後に口語訳の新約聖書が発行されており、戦後、口語自由詩へと急激に移り変わる時代の中での本書の発行であった。
だから、文語的な詩をいくつか鑑賞した後に、「口語自由詩について」50頁以上方っている。そうして最後のほうでは、「数人の詩人について」と題して、次々と詩人の代表的な詩を取り上げて、鑑賞してゆく。
そもそも詩の鑑賞というものに、正解があるわけではない。受け取った人が、その人なりに受け止めればよいのであって、国語の問題として出されることがあるものの、よほど無難なあたりまえの解釈くらいしか問題にすることはできない。この本を読んだ人の中に、詩人が自分の好き勝手に感想を言っているだけ、という手厳しい文句を言っている人がいたが、それはもう、本書に対してのみならず、詩というものについて、誤解の塊のようなものに見えて仕方がなかった。何か国語の入試問題のように、正解を教えてほしかったのだろうか。
ところで本書には、最後に杉本秀太郎氏の「解説」がいくらか長く掲載されている。京都女子大の名誉教授であった人で、評論家でもあるが、本書の「前書き」に痛く感動し、そこに大切なものを見出している。「とにかく巻首の「前書き」をお読みください」と言い、「もう一度「前書き」を読んでください」と食い下がる。こうまで「前書き」を重視し、読者にそれを味わうことを促すことも珍しい。
ほんの4頁の「前書き」であるが、それによると、「年少の読者のためにという、書店の依頼」により書かれたということだが、とてもとても「年少」対象に留まらないものだと思う。そして解説にあった言葉、「詩を読み詩を愛する者は既に彼が詩人だから」という言葉が見える。私も間違いなくそこに赤線を引いて読んでいた。
その他、この本の中で「私の過去をただ今の私の位置から考え直してみることをした」のだと言い、「詩は一本立ちの孤独な心で読むべきもの」だとも述べている。「詩は各自めいめいの心で読むべき者です」とも繰り返し、「心を柔軟に精神を平らかにして、さまざまな詩人のさまざまな作品に虚心に従ってゆくことは何という楽しい遍歴でしょう」と掲げる。「それが私の流儀です」と宣言するのだか、その流儀を読者に強要はしないにしても、まずは勧めたいということを言っている。
解説者は、アナトール・フランスやポール・ヴァレリーの名を挙げ、それらの文章を本書のスピリットに重ねようとしている。さらにユジェーヌ・フロマンタンの名も加えるが、私はこの人については知るところがなかった。さすが文芸評論家であり、こうして一冊の本から、別の作家や本へと窓を開いてくれるのはうれしいことである。だから、その「解説」にはたっぷりと厚みを感じることができるし、「日本が近代国家の条件を急速にととのえるにつれ、民の身に生じるにいたった愁い、悲しみ」というものが詩人たちの中にあったことを指摘するなど、新たな視点を渡してくれる。
「解説」にばかり注目するのはフェアではあるまい。私が本書に惹き込まれたのは、最初の「千曲川旅情の歌」についての著者の語りだった。ローマ字で、母音Oの音が大変多いことを示すのだ。詩の言葉は、見るだけで終わらない、という当たり前のことを目の前に突きつけてくれる。さらに、続く業ではU母音、あるいはK子音というふうに、細かな指摘がなされ、音韻という要素について、どんと大切なことを突きつけてくれたのである。
もちろん、三好達治が感じたことばかりを蕩々と記しているわけではない。詩についてのテクニックめいたもの、その詩人のもつ詩に対する思いや特徴など、客観的と言ってもよいような事柄についても、その都度ちゃんと述べてある。
虚構がそこにあったとしても、そこに真実がある。詩の醍醐味は、そういうところにもあるのだろう。私が昨日、村上春樹のラジオで聞いた言葉が、ここにきれいに結びついた。それは、フランスのジャン・コクトーの言葉であった。
「詩人とは常に真実を語る嘘つきのことだ」

た
か
ぱ
ん
ワ
イ
ド