本

『信徒 内村鑑三』

ホンとの本

『信徒 内村鑑三』
前田英樹
河出書房新社
\1365
2011.2.

 河出ブックスというシリーズの選書で、少し紙の質を落としているのか、若干軽い本となっている。その分、価格もいくらか安くなっているかのように見えるが、実のところどうなのか分からない。
 人と思考の軌跡という枠でこの本が捉えられているものらしい。そして本の帯に「この信仰を見よ!」と力強く訴える言葉が記されており、目を惹く。
 この言葉、そしてこのタイトル。本の中身を、確かによく言い当てている。簡潔にこの本を伝えるとすれば、これらで十分であるのかもしれない。
 内村鑑三とくれば、無教会主義であるとか、二つのJを大切に考えたとか、教科書的にはそんなふうな用語が思い浮かぶ。また、有能な弟子もそのグループから育ったことも、キリスト教界では見逃せない。
 しかし、この本はそうした点を概説しようとするものではない。いきなり、内村がアメリカに喧嘩腰に吠えるところから始まる。アメリカは信仰の点で堕落した、それならばよほど日本人のほうが宗教心に篤く誠実である、と気づき、日本本来の信仰心のようなものに注目していく。
 一方で、内村の生い立ちにも触れられ、その結婚生活の悲惨さが蕩々と語られる。最初の妻の中に悪魔すら見て、しかも捨てるようにアメリカに旅立つところがその妻は懐妊し、父親に後始末を託すが泥沼になっていくというふうに、およそ信仰者として許し難いような私生活を明らかにしていく。
 ところが、内村は生涯三度にわたり、キリストへの信仰が深まる段階があったのである。それを指摘するのに、こうしたいわば醜い私生活への言及は欠かせないのである。
 著者は、キリスト者ではない。だから内村のような信仰者を汚く描くのか。いや、そうではない。この著者、驚くほどに、キリスト教についての理解が深い。これだけよく表現できて、なおかつ信仰をもっていないと言うなど、文学的な素養のある人の洞察が如何に深いかが偲ばれる。
 内村は非難を浴びる人生を送る。しかし、キリストへの眼差しはぶれない。確かに、新たに気づかせられるということはある。晩年は、再臨信仰への傾きを強くするが、それもキリストの真理、聖書の奥深くに気づかされてのことである。あげく、聖書のすべてを理解することなく死ぬしかないのか、と悲しむほどに、聖書を愛し、キリストに焦がれていく。
 これを著者は「純信仰」と呼ぶ。内村は、この純信仰を貫いたのである。それは、日本における幾人かの仏教などの信仰者の精神と通じるところがある、とも語る。この視点は、逆にキリスト者は見抜きにくい。潜在的に、キリスト教の優位を心に置くから、他のものとの比較を控えてしまうのである。しかし、著者はその点自由である。内村と日蓮を比較することにも何ら遠慮しない。そして、そうした視点が、よけいに内村の行動の理由をはっきりと私たちに見せてくれるようにもなる。
 教会の制度や、アメリカのような事業によって、キリストの救いがもたらされるのではない。キリストとひとつになるのには、教会という制度や組織は妨げになるしかないのだ、と内村は考えた。そう感じさせる事情が、当時の日本の教会にあったことは確かであろう。では今はどうか。今はないのか。そんなことはないだろう。ただ、あまりにも日本のキリスト教が分裂している。ばらばらで多様的であるがために、締め付けもなく、純信仰をどこから貫こうとしてもキリスト教界一般からの圧力がないのではないだろうか。では今のキリスト教界から内村鑑三のような一途な人物が出て来るのだろうか。
 内村の名がこうして残るのは、慕う弟子たちの多さ故でもあるだろうが、また、とくに戦争についての論評と態度が、日本の中に大きな波紋を投げかけたというせいでもあるだろう。日本はアメリカのようなものを理想とするのであってはならない。農業による自給自足のあり方こそ日本本来のものであって、領土拡張や利権の獲得を目ざすような戦いは全然似合わないのである、と内村は訴える。その上で、いわば闘わずしてひたすらに犠牲になるだけのような、いけにえの小羊のようなあり方をする国があってもいいし、日本はそれに相応しいとすら考えるようになる。こうして、日本こそ再臨のキリストの国であるのだと信じていく。
 まさに、これは「信徒」としての生き方である。牧師ではない。教会組織の存立を気にしながら、誰かの顔色を見て行動するようなタイプではないのだ。ひとりのキリスト者であるということは、ただ自分とキリストとの一致を見つめて離れない生き方をすることであろう。内村鑑三の中に、著者はそのような人間の姿を見る。
 壮絶なクリスチャン人生である。しかしまた、きれい事ではない、それでいて貫く信仰のすがすがしさのようなものにも出会うことができる。内村鑑三を、自ら信徒としての目によってでなく、一人の純粋な心の持ち主として敬愛する著者の腕がここに表されている。読み応えのある本であったし、内容であった。そして、読者に対して、自らの生き方を見つめたり、何かへの挑戦を促したりするような迫力を伴った記述であった。これもまた、著者の力量なのであろう。
 クリスチャンも、言葉は悪いがへたに安穏とした信仰書を読むばかりでなく、こうした刺激のある人間の生き方をぶちまけた本によって、挑戦を受けたほうがよいのだということも、今回心得たものであった。




Takapan
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