本

『すばらしい新世界』

ホンとの本

『すばらしい新世界』
オルダス・ハクスリー
黒原敏行訳
光文社古典新訳文庫
\1048+
2013.6.

 ストーリーのところどころで、この「すばらしい新世界」という言葉が、互いに口ずさむかのように交わされる。いかにもそらぞらしいものだが、そもそもが、世界へのあてこすりであるという前提で読者は読んでいるはずだから、ちょっとシニカルな笑いを浮かべながら読むしかないのだろう。
 人々はフォード紀元でカウントされる時間の中に世界はある。工場で人間が生産されている。老いもなく、感情は揺さぶられない。ソーマと呼ばれる麻薬のようなものがあれば幸福感が保たれる。結婚はありえず、自由に交わる。争いもない。楽園だ。だからこれはユートピアだ、というような姿を示しながらも、それとは正反対のディストピアである、というのが読者には誰にでも分かる。
 ジョンというのが、いわばまともな人間である。これがこのすばらしい新世界に来たことから、衝突が生じる。そんなドラバタ劇が展開する中で、とにかく随所に皮肉やからかいのようなものが噴出する。従って各頁の左側に、その表現の背後にあるものが注釈として加えられている。マルクスだのレーニンだのという名前やそのもじりが飛び交い、シェイクスピアなどの引用も随所に鏤められている。
 本書の解説は、巻末にかなり詳しく載せられており、物語の中での歴史年表のようなものまであるので、こちらを先に見ておくと、物語の展開が頭の中で整理されやすいかもしれない。作者ハクスリーについてや、文明評のようなことについても詳しいので、私は失敗したが、解説を先に見ると呑み込みが早いのではないかと思われる。
 また、その直前であるが、物語が終わったところで、「著者による新版への前書き」なるものが存在する。これは20年前の作品を振り返り、著者なりに反省するところがあるというようなところが弁明されているようなのだが、その間にも、現実の世界はこのまさかのような世の中にずっと近づいているのではないかという感想を漏らしている。科学が軍事を煽り、文明は狂った方向に落ち込もうとしている。これをハクスリーは、第二次大戦直後に記している。ユートピアが待っている、というような表現を使っているようにも見えるが、これも皮肉なのだろう。人類は「すばらしい新世界」に憧れているように見えはするが、とんでもない現実があることに注意を促すかのようである。
 西洋にはいくつかの、こうしたディストピア小説がある。オーウェルの『一九八四年』が有名だが、その深刻さに比べれば、こちらは荒唐無稽でかなり笑える。しかし、笑った後に、本当にこれは笑える話なのだろうか、と自分のいる世界に目を落とすことになるはずだ。まるでよその世界のように読み進みながら、待てよ、と足元を見てしまうような思いがする、ということだ。
 人を人として認め合わないで、感情をなくしていくような世界。最初に描かれた時から百年近く経ったのだけれども、人類はこの悪しき空想の方向に突き進んでいる面が確かにあることを自覚させられる。そして、自分がそのように変えられていることに震えそうになる。
 但し、情報通信網の発展はここには十分描かれているわけではなく、もっとイデオロギー的な理解だと言えるから、私たちは通信の中から心を通わせることを展開できるのかもしれない、と一縷の望みを抱いてみようかとも思う。しかし、私たちの求める理想というのが、この小説の世界以下であるのならば、この「すばらしい新世界」が実現している空想の国のほうが、よほど幸福であるようにも見えてしまうのは何故だろう。
 にやにやしている場合ではないのだ。
 なお、インディアンについての偏見に満ちた描写が延々と続く場面があり、さすがに巻末に注意が促されているが、かつての西部劇映画のように、こうした見方は西洋の常識でもあった。いま私たちはそうした見方には賛同できないが、私たちの差別意識がどういうものであるかを考えるためにも、よく理解を以て読み取りたいものだと思わされる。




Takapan
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