本

『震災と死者』

ホンとの本

『震災と死者』
北原糸子
筑摩選書0203
\1700+
2021.1.

 東日本大震災だけでなく、関東大震災と濃尾地震においてもレポートされているが、印象としては、実によく調べてあるという驚きである。実証的であるというか、当時の資料をふんだんに活用して、事実何が起きていたのかというところを私たちに紹介してくれる。
 それは、ただ詳しいだけの驚きではない。視点である。タイトルにあるように、死者である。もちろん、大地震において死者は多数出てしまうだろう。まるで死者数や死亡原因を考察し、死なない対処を考えようではないか、といううような防災を目的としているようにすら予断してしまいそうではないだろうか。それが全然違うのである。
 本書は、災害の後、生者が死者をどのように扱ってきたか、ということの研究なのである。
 案外これは、暗黙のようにすら扱われてしまいがちである。災害の報道がある。死者数が知らされる。たいへんな被害だ、と想像する。避難所は大変だ。遺族は悲しいだろう。そんなふうなところで私たちは、心情的な部分に関心を寄せることで、視聴者自身の心理を安心させる働きが起こり、それ以上は進まないものである。
 しかし、現場では、この死者をどのようにするか、大問題なのである。
 実際死者はどう扱われたのか。葬式をして火葬する、それができない情況なのである。だが、遺体をそのままにしておくわけにはゆかない。震災による遺体は損傷が激しい場合も多々あり、一刻を要する処置であるはずなのだが、できないのである。実際その場でどうしなければならないか、それを門外漢は話題にすらしていないのではないか。想像だにしていないのではないか。
 そう。まず土葬するのである。いずれ火葬できる環境が調ったときに、掘り起こして荼毘に付す。指摘されれば当たり前のことなのだが、こうした点を報道が知らせることはなかったのではないだろうか。
 また、キリスト教のことも触れてないわけではないが、圧倒的多数は仏教による葬儀、また納骨ということになるだろう。しかし、その寺院そのものが被災している。墓地も破壊される。津波の被害があれば消滅ということにもなる。人々のコミュニティーの核としてその地域にあった寺院を、なんとか再建し再興しなければ、埋葬も供養も何もできない。こうした困難についても、震災被害を思いやる立場の者たちには意識されていないのである。
 こうした問題を、新しい東日本大震災における詳しい調査が実に綿密になされたということは、研究者としてはまだ可能であったかもしれないが、遠く関東大震災と濃尾地震においても調べ上げられている、というのが本書の業績である。足で調べ、人に会い、また史料という史料を漁るかのように探ったその苦労が偲ばれる。そしてその一つひとつが、一般には知られない事実として、しかもいざ災害が起こったときには必ず問題になる事態、しかも一刻を争う事態として起こるものとして、社会に必要な検討課題を教えてくれることになるのである。
 この現実的で実務的な課題の向こうに、心の復興もある。たんに家屋がないとか経済的に苦しいとか、あるいは心理的に被災して悲しいとか、家族を亡くして辛いとか、それだけが被害のすべてではない。死者を、遺体を、どのようにするか、この一点だけに絞るような調査でありながら、実はそれこそがまた、心の問題を考え心を助けるための、重要な、また必要な、営みであるのだと教えられた。この実証精神に、心から敬服する。




Takapan
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