本

『阪神大震災から10年/未来の被災者へのメッセージ』

ホンとの本

『阪神大震災から10年/未来の被災者へのメッセージ』
阪神大震災を記録しつづける会編
神戸新聞総合出版センター
\1260
2005.1.17

 1995年1月17日未明、地面のひと揺れ(数が一度という意味ではないにせよ)によって、多くの人の人生が一転した。
 命を失わずに済んだ人々は、まさに懸命にそこから立ち上がった。けれども、現実の壁は大きく、十年経ってもさらに金銭的にも苦しい状況が続いている。精神的な苦しみは、計るよすがもない。
 何か、記録しなければならない。それも、冷たい数字や官公庁的なタテマエでなく、生の声を、それも、たんに感情的なぶちまけや、あらぬ憶測ではなく、自分が体験したありのままの事実を。そして、ただ一過性の、記録しておしまいというのではなく、復興の足取りを、体験者が生きている限り記録し「続ける」営みを志す人々が集まった。
 そうして、ホームページに、手記が集められていった。
 代表の高森一徳さんはコメントする。「ホームページは、重たい体験をされた被災者がその記憶を記録し、思いを発信する場として、また、共通体験をした方々が連帯し、語り、癒しあう場として、大変有効なツールです」(31頁)
 今回の十年目の出版では、新潟県中越地震と重ねて見る視点も編集者は得ている。記録し続けることには、必ず意味がある。
 多くの人々の体験が、一つ一つは短いけれど、ここに詰まっている。読んでいると、辛くて目がそれ以上先へ進めなくなるような文章もある。
 たしかに、今年2005年は十年目ということで、テレビやラジオなどでも盛んに阪神淡路大震災のことが取り上げられた。美しい話がそこにはある。だが、それを敢えて見ない被災者もいる。「美談が悪いのではない。美談の前に必ず苦しみがあったのである。そのことを忘れているようで悲しいのだ」(110頁) その苦しみや悲しみは、何一つ捨てて前進するわけにはゆかないのだ、とその人は語る。
 では、被災者とは言えない私たちには、何ができるだろう。何か助けられたら、と思って行動を起こしても、それでいいのか、何か偽善めいたことではないのか、という思いに苛まれることがある。そういう思いに対して、被災した方に励まされる内容にも巡り会った。「偽善者かも知れないと悩みながら人助けをしている人は偽の偽善者、つまりは真の善者だと私は思う。本当の偽善者は自分を責めたりしないからだ」(160頁)
 もちろん、普通表に出ないような現実問題についての問題提起も多い。死者数は盛んにカウントされ意識される。だが、地震のための怪我人、たとえば障害者となったケースが正面から取り上げられることはない。また、被災の陰に性被害があったという相談をもとに機関に訴えても、そんなことはなかった、と取り扱ってもらえない。別のシチュエーションでも似たような話がある。事は深刻だ。
 こうした状況で、人を勇気づけ、立ち上がらせることのできる力を、一種の宗教、信仰に求めるのは、大いにありうることだが、現実に心のケアのボランティアをなさっている方は、既存の宗教とは別に、医学的な信仰なるものを提唱している。これについては、高森さんも注目している。高森さん自身は特定の宗教を信仰していないと言っているが、人々の魂を見てきているせいか、鋭い着眼をしておられる。コメントにこのように記している。「宗教を持たないということは、自らが神か仏になることです。」(244頁)
 そして「あとがき」で、被災者は「泣く子(と地頭云々という場合の)」のように勝てない存在のように扱われている場合があると述べている。だが、泣く子が泣き声しか出さないのではやがて忘れられるし、泣く子の要求が正しいとも限らない、という。この震災の記録は、そうしたことをはっきりさせる営みであったのかもしれない、と。
 被災者でなければ書けない言葉である。だからますます、その重みを理解したい。
 震災から10年とちょうど1ヶ月の今日、テレビやラジオでは震災についてのニュースは特にはないようだ。それはそれでいいが、どこか寂しい。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります