本

『詩のすすめ』

ホンとの本

『詩のすすめ』
吉野弘
思潮社
\980+
2005.1.

 帯には「詩の森文庫創刊!」と書かれている。文庫版ではなく、新書版である。詩人の吉野弘については、雑誌の特集号や文庫の詩集なども読んでいる。つまりは、ささやかなファンである。そのため、詩についてどのような捉え方をするのか、好みのようなものも、漠然とだが感じて知っている。本書は一般に評判がよかったので、取り寄せてみた。
 副題に「詩と言葉の通路」と記されているが、これは第1章に添えられた題である。これが50頁余りあると、その後は第2章で、次作の詩を載せ、それへの解説やコメントを続けてゆく。そして第3章は、他の詩人の詩を取り上げ、どうように解説してゆく。あるいは鑑賞と呼んだほうがよいかもしれないが、確かに解説というよりは、吉野弘がどう感じたか、どう評価するか、といった角度からの声だ、として聞いた方が適切であるようだ。
 吉野弘自身は、多少理屈っぽいところがある。漢字をモチーフにして、いやに説明的な内容で、ふだんその漢字からはとても感じないであろうような世界を表に出してくる。しかし、何もかも理屈で割り切るようなことは、もちろんしない。感性が重要である。ただ、同じ感性でも、この表現には驚いた、というような、何らかの説明ができているからこそ、本書が成り立っている。
 いきなり冒頭から、フランシス・ジャムの詩を引用し、「雪はその白さから/治る日はないだらう」というところに、人間の病気が治らないことと重ね合わせる絶妙な持ち出し方について、いろいろと解説を加えている。
 こうしていろいろな詩を具体的に取り出しては、それを吉野なりにああだこうだ、と言葉を選び出す過程を想像したり、この詩の背景にあるものを言い当てようとしたり、詩の鑑賞の姿勢を学ぶこともできるように思う。
 「すじの通った言葉よりも、むしろ変な言葉である場合」に、人は言葉を意識するだろう、というような書き方もしている。病気になれば、その異常さを覚えて、肉体の存在を強く意識することにも似るだろうか。何かふと引っかかりを与えられた言葉、それが心に残るものだ。宗教的になると、それが自分の良心のような奥底にあるものに触れる経験を、必ずすることだろうと思うが、詩人の場合はそうした魂の範疇ではなくて、かけがえのない言葉の選択と共に、言葉のもつわずかな毛やトゲが、心に引っかかってくるのであろう。
 本書は元の出版では、1980年であったという。当時のモーニングショーに出ていた、盲人電話交換手の女性が、通勤が大変でしょうと尋ねられて、大変ではあるけれど、「ぶつかりながら歩いて」くるから大丈夫です、と答えた言葉が、吉野の心に強く残っていた。この「ぶつかりながら」のところは、私はどこかで読んだことがあるような気がする。これは確かに詩人の感性と言ってもいいのだろう。そして吉野は、「ぶつかる」ことを詩に書こうとして、どうしてもこの女性を超えることができない、と告白している。
 こんな具合であるから、本書は、行き当たりばったりの詩作への指南である。理屈を通して何かを伝えようとしているふうでもないし、詩についてレクチャーするために論理の流れをここに構成しようなどという意図も見られない。あるのかもしれないが、私には分からない。
 言葉が詩人の命である。他国語の意味にはどういうニュアンスがあるか、その都度調べる。類語を集めてみたり、語源を調べてみたりもする。このような、知的な調査というものも、吉野の魅力である。自分の感覚だけでなにもかもするべきだ、と挑むのは勇敢でありいかにも詩人であるように見えるかもしれないが、言葉についてはじっくり調べ、いろいろな入口があるのではないか、と探してみるのは、私はよいことだと思う。むしろ、自分の世界だ、などと粋がっているほうが、案外世の中や誰かの作風に影響されて、何者かに操られたかのようなふうに、言葉を並べてみただけのものになってしまっているかもしれない。
 自作の詩については、その背景や逸話などもふんだんに見せてくれるし、なにしろ自作なのだから、背景にある事情もよく語ってくれている。どうしてその言葉を選んだのか、という背景を、詩人自身から聞くというのは、詩作の楽屋裏を見せてもらえるようで、興味がある。詩の言葉を見出すには、どのようなことが背後で行われているか、が分かるのである。もちろん、それは詩人により悉く違うものだろう。一つの事例というだけであるかもしれないが、まずは一つ、様子を教えてもらってもよいだろう。
 これが、他の詩人の作品へのコメントとなると、また少し違ってくる。吉野の、その詩人との出会いというものも生き生きと伝わってくるし、詩をいわば外部から眺めるようなことになる。それを、吉野自身の詩との出会いというものを語る口調で、一緒に読者も詩の言葉を味わうようになってゆく。
 中原中也の逸話については、私は偶々先般『中原中也詩集』を読んで知っていたので、改めて驚くことはなかったが、その若いときの大きな波に呑まれるような人生が、詩の中にどのように現れてきているものか、詩そのものの鑑賞という点から、新鮮な思いで味わうことができた。他に高村光太郎も挙げられているが、これも私は『高村光太郎詩集』を先日読んだばかりだった。倫理的にどうだ、などという議論には、筆者は全く興味がない。ただその言葉との格闘において、他の詩人がどのように振る舞ったか、それを同じ詩人として筆者も想像し、またいろいろと調べて、ここに綴っている。
 最後に取り上げられた、高見順の詩も、私には心地よかった。「ああ、そうきたか」と思わせる愉しみも覚えた。そして、それを読者に感じさせる、筆者の声が、これまた心地よい。
 繰り返すが、必ずしもまとまりはない。だから、一読した後は、時折気ままに開いてみて、感性を磨く機会を見つけ出してみようかと思う。




Takapan
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