本

『死の講義』

ホンとの本

『死の講義』
橋爪大三郎
ダイヤモンド社
\1700+
2020.9.

 社会学者であるが、『ふしぎなキリスト教』を2011年に出してから、私の視野に入ってきた。宗教についても、詳しい。などというと失礼にあたるだろうか。比較宗教の方面にも造詣が深く、かの話題の書を呈しただけのことはある。キリスト教についての知識も、宗教学者の某Sと異なり、特別な偏見や無知によるようなものを感じさせないと言える。もちろん、癖はある。少し突き放したような見方もするが、それは学者としての態度であると言えるのかもしれない。しかしご本人が教会員であるということは知らなかった。信仰という姿勢をもっているということになる。尤も、信仰と言っても人様々である。それだけの情報ですっかり信頼できるのかどうかはまた別だと言えるだろう。
 本書の話題は、ずばり「死」。宗教や思想における死の捉え方の他、日本人の死生観も俎に載せているところがいい。白の表紙に代と、各宗教の死に対する考えを象徴しているであろうような、不思議なデザインが、まるで模様のように置かれている。ハードカバーであるが、本書の中は至って地味で、イラストのひとつもない。項目をゴシックにして、下に寄せるというユニークな仕様で、ところどころ同じゴシック体で、その宗教のテーゼが掲げられている。これは本の最後で分かるが、できるだけ簡潔に、その宗教のエッセンスを要約して提示するということをしているが、それが本の随所でこうして置かれているのである。
 そもそも「死ぬ」ということはどういうことなのか、から入る。簡潔な叙述で、あまり立ち入った感じはしない。淡々と告げる。そして次の章から、おおまかに分類した各宗教の死の捉え方が検討される。まず一神教、それからインド思想、中国思想と来て、日本人の死生観がしばらく取り扱われ、最後に「死んだらどうなるか、自分で考える」というタイトルを掲げ、これまで取り上げた哲学から各宗教における、死んだ後のことについてのまとめが入り、結局自分で選びましょう、と結ぶことになる。
 自分でも関心がある故にいろいろ調べてきたのだろうが、各宗教に対しては専門性がない。それで通俗的に、また一読して分かるように込み入った議論はせず、とにかく様々な思考パターンを提供するのがこの本の使命であるかのような姿勢で、綴られている。くどくど立ち入った話はしない。読みやすさは抜群である。だが、それ故にまた、どうしても底の浅い説明になっていく。確かに簡潔に宗教の特色を示すのが、執筆者の理想ではあるだろうが、あまりに簡潔で、かなり思い切った無理やりの要約であるかのようにも見え、一般社会への啓蒙のひとつの道というほかには、そう魅力のあるものではないと感じた。
 宗教にしても、いま挙げたようなジャンルであると、日本人にとって宗教ということで馴染みが比較的あると思われる世界の宗教だけを取り上げているのであり、世界中の宗教比較をやっているわけではない。よく学ばれたことを、こうして切り出したというところに、意味があるのだろう。
 ネタバレになってしまうので恐縮だが、本書の本文は、最後の最後で、次のようなことを思い出す突如言う。宗教それぞれで、死んだらどうなるか、これを問いとして提示したのだが、「どの宗教を選んだとしても、結局は同じことなのである」という言い方をしている。そうだろうか。私は思うが、この命題自体が、ひとつの宗教としてここにあるような気がする。こうした宗教もある、という意味での宗教であることをよく表しているように思うのだが、どうだろうか。
 本書は、学術書ではない。しかしフィクションとして描いているわけでもない。「死」というテーマに添い、それを舞台として、世界の思想史を概観するような趣があった。世界とは言っても、いま述べたように、日本に関わりの深い地域や国のこととなるだろうが、もちろんそれだけではない。それはもう本書の限界なのだ。私は、ひとつのエッセーであるとしておくのがよいのだろうか、と思った。宗教についてもできるだけ客観的な情報を伝えようしている。もちろんそれは著者の理解したものという世界を越えることがないのだが、多くの宗教情報がこの本の魅力である。しかし、それはやはり素人の趣味で集めた知識というようにも見えてしまう。素人と言うのは忍びないが、専門的に調査することや、反省的にとことん検討しようとすることなく、淀みなく綴るものは、やはりどひか頼りないものを含み有っているような気がする。それでいて、宗教の共通項を取り出そうとしたり、宗教はどれも同じと述べたりする。宗教に対してひとつのモデルを提示しようとしているのは分かるが、全部人間の内側から発される考え方や感情、あるいは行動という方向性しか感じられない。そうではなく宗教とは、外から来るものを考慮する必要があるのではなかっただろうか。自分で見つけるとか、自分で選ぶとかいうふうに宗教を決めようと提言するようになった本書の姿勢は、果たして「死」について一定の見解を得ることができる道を提供したことになるのだろうか。
 死の講義ということで、狭いテーマから、しかし関心の度合いからすると最大かもしれない問題を追究する構え方となったわけだが、体験的な境地を提供しないのか、知らないのか、著者の様子からすると、決して平安を与えるものではなくなっている。また「信じる」という言葉にしてもそうだが、言葉に対する定義やテーゼの持ち出し方など、哲学的な議論や方法によるものではないことが分かるので、言葉の使い方や知恵の提供の具合になどを考えても、結局自分で決めなさいという程度のことしか言えなくなり、読者は期待はずれに終わらないだろうかと懸念する。やはり、本書自体が、ひとつの「宗教」として機能しているみたいに見える。だからこの本さえも止揚されて、死についての、理論的説明に終わらない、体験的で具体的な死への経験へと、言葉の用い方に十分配慮をした上で、次のステップで歩み進めてもらえたら、と願う。通俗的な本として出ているけれども、それにしても、読者にもう少し何か道が提供できなかっただろうか、と少しだけ残念に思う。




Takapan
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