本

『死の壁』

ホンとの本

『死の壁』
養老孟司
新潮選書061
\714
2004.4

 ベストセラー『バカの壁』の続編だという。そしてこの本もよく売れた。たしかに読みやすい。それでいて、私には個人の誠意というものを強く感じた本として記憶に残るだろう。もっとも、『バカの壁』を私はこの時点でまだ読んでいない。ベストセラーの類にはあまり飛びつかないことが多いのだ。だから、続編云々としては別として、この本だけについて述べてみたいと思う。
 死について現代人がいかに自らを疎外しているか、が前半で繰り返し説かれる。そこには、「なぜ人を殺してはいけないか」という、大人がたじたじとなった問いも含まれる。筆者は、それに対する答えは明らかだと言うが、いろいろ突っこまれるのを避けるためか、自ら言明する態度をとらない。これは、序章で、『バカの壁』について触れたときの態度と同じである。だからどうするか、については、人に教えてもらうのではなく、自分が考えて決めることなのだという。死という、根本的には個人的な事柄について、人任せであってよいのだろうか、というふうにも聞こえる。
 死には、人称により三つの様相があるという。一人称の死・二人称の死・三人称の死である。一人称つまり自分の死については語れない。語る自分が死んでいるからだ。二人称の死を覚えるとき、かけがえのないものの喪失を味わい、身を切られるような感覚になる。悼みも痛みも覚えない他人の死としての三人称が日常的なあり方である。解剖学教室で仕事をこなしてきた筆者は、ここに「死体」の存在を見る。
 後半は、死が社会性と絡んで説明される。日本における死は、欧米あるいはイスラム世界とは異なる社会性があるというのだ。死は「世間」からの脱退なのだ、と。世間という領域が意識されない欧米あるいはイスラム世界にはない、死の意識があるのだという。
 そして日本社会に真のエリートが育成されていない現実を指摘する。部下の痛みを背負う意味でのエリート意識、自分は加害者なのだという意識が、かつてはあったのに、今はない、と。
 口述筆記による本であるため、読みやすい。その都度、ふむふむと頷く。だが一方、本全体の論としての主張が何であるのかが、どこかぼやけてしまう欠点もある。読後感は、何かしらの命題を学び考えたというよりも、たくさんのよい講演を聴いたというものに近い。
 ただ、最後に記されていた、筆者と父親との関係には、少しばかり感情移入してしまった。まだお読みになっていない方のために、ここは語らずにおこう。
 そこにある二人称の死の強烈な実例が、「なぜ人を殺してはいけないか」への答えを読者に促す契機となっているはずだ。自分の死については自分にとっては議論しても仕方のないことだが、周りの人々、世間に対しては、影響ただならぬものなのだ。この点、戦う哲学者・中島義道氏の死生観とは対照的である。




Takapan
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