『死の淵からの帰還』
野村祐之
岩波書店
\1900+
1997.8.
礼拝説教の中で触れられた本は、全部読みたくなる。本書もそうだ。内容は、臓器移植の体験記である。
その意義や歴史など、客観的なことを期待してはならない。それを訴えようとしているわけではないのだ。あくまでも、ここにあるのは個人の体験記である。そして、誰でも経験できない当事者として、そこからしか見えないもの、聞こえないもの、考えられないことを、次々と繰り出してゆくことになった。
本の帯には、「いのちとは何か」と少しおおかな文字で書かれ、続いて「臓器移植手術を受けた患者による体験にもとづく根源的な問いかけ」と説明されている。いわばそれがすべてである。
まず、その症状の発生から始まる。私たちの人生は、何の準備も予感もなく、突如として別の世界に陥れられることがある。「呼吸ができずに目が覚めた」ときの様子が描写される。朝担ぎ込まれた病院では、腹水が溜まっていることが分かった。そして原因は肝臓以外には考えられないと言われる。酒も飲まない本人は、ここで楽観的になる。そうした心理もよく描かれている。
しかし、診断の結果、担当医の説明は、世界を変えた。早ければ15分の命だ、と言われたのだ。42歳のときのことだった。
著者は、学生時代に、アメリカのホスピスでボランティアをしたことがある。青山学院の神学科を卒業した後、アメリカの神学校に通う中でのことだった。そのときの思い出話を語るのは、今回の事態のバックボーンとて有意義である。このときには、死に瀕する人を、外側から見ていたことになる。そのときに教えられたことも語られる。これは、いわば読者の視点である。但し現実に当事者と接しながらの出来事や感想であるから、一般の読者の与り知らぬことが多々記されている。これだけでも、本来は貴重なのだ。
ホスピス、ということについても、アメリカはまだ始まったばかりに過ぎないような頃である。従って、このときの試行錯誤や運営もすべて、いまもなお意味のある歴史ということになるだろう。ホスピスについての学びのためにも、ここでの記述は大いに役立つものと思われる。
しかし、いまやその当事者に、自分が変わってしまった。単純に悲観するというよりも、神学を知る著者は、前向きな気持ちになっていた。これだけでもすばらしいことだ。著者は、自分の葬儀の支度を始めたという。
当時、日本でも、小児の生体肝移植が話題になっていたという。だが、だから自分も、というような思いになったわけではなかった。移植の意味もいろいろと考える。いわば、亡くなった人を待つような形で、その臓器を自分がもらうのである。人の死を待って自分が生きるということについて、深く考えれば葛藤もあるわけである。
しかし、周囲の人の薦めと支えが大きかった。周囲の人たちの熱い気持ちを蔑ろにすることが愛なのか。聖書を知る著者である。命を捨てるより大きな愛はない、ということも分かっている。だがそれは、自分が闇雲に捨てるべきだ、などと立ち上がることばかりを意味するわけではない。むしろ、なおかつ自分が何事かをなすことができる、というように意気込むことは、傲慢であるのかもしれない。自分は愛する側なのだ、という態度がすべてではない。神に愛され、また人に愛されているならば、その愛を踏みつけにすることにならないかどうか、考えて然るべきであろう。
本書のよいところは、これらの葛藤や考えを、聖書本意で教義的な振る舞いを以て語らないことである。等身大の、そして地に足のついた形で、命とは何か、死とは何か、誠実に考えようとしている。自分が直に受け止める立場になったことを最大に活かして、そこからしか見えないものについて伝えようと、言葉を紡いでゆくのである。聖書にこう書いてある云々、で片づけないのである。それは自分の中にあるものから生まれたものではない。しかし、自分の中にあるものが直ちに皆人間的なものであるとは限らない。信じる者には聖霊が働いている。否、聖霊が内に住んでいる。
著者は、脳死をはじめ、臓器移植について、読者が普通知らないであろうようなことを、丁寧に語りほぐす。語りかけるように、話し続ける。それは教えようと整理したものではないかもしれないが、ハートにより伝わってくる。
さあ、移植を待つこととなった。費用はどうするか。手続きはどうか。アメリカに移動することだけでも、リスクが伴う。渡米途中で身体に問題が発生したらどうなるのか、の不安と対策。様々な、具体的な一つひとつの事柄がチェックされ、手を打たれてゆく。ここが詳細に記されるということで、これは臓器移植という事態に関しての貴重な証言となっているはずである。
病院のコーディネーターの仕組みやその仕事まで、よく伝えてくれる。ついに移植の日が来たが、自分が眠っている間の出来事は、瞬時に進んでしまう描写が、当たり前ではあるが、面白いと思った。手術そのものについては何も説明できないのだ。
本書はまた、臓器提供をする側の過程や問題点などもよく紹介している。だが繰り返すようであるが、そういうシステムや手続きを著者は説明したいのではない。
聖書の言葉を自分が体験したこと。「死んで、他らしい命へと生まれ変わった」ということを、観念的に理解したのではなく、その身体を伴う形で経験したのである。少しばかり「アガペー」を持ち出すこともいいと思う。「アガペーの愛の関係では、そもそもの原点が他者にある。そしてその愛の帰結点も相手であって、自分にはない」(p174)というような、神学の具現まで扱われているのである。
手術後、著者は病室のテレビに自分の姿を見る。傷だらけの自分が画面に映し出されている。ここが本書の、酷いけれども美しい場面である。礼拝説教においても、この場面が紹介されたのであった。時は4月、イースターを間近にした時期であった。テレビには、イエス・キリストがゴルゴタの道を進む場面が映し出されていたのであった。
この後、拒絶反応が現れ、一生に一度しか使えない薬を使うかどうかの判断の問題などを含め、かなり危なかった情況が説明される。もちろん、命長らえたからこそ、こうして本が成立している。
こうした体験談を講演する中で、共に招かれていたマザー・テレサに声をかけられるエピソードなども交えながら、シュヴァイツァーの生命への畏敬の言葉などに触れつつ、日本における移植への思いなどを、生命という概念を軸に綴ってゆく。そして、芭蕉の句「命二ツの中に活きたる桜哉」をひとつの象徴のように挙げて、本を結ぶ。
野村祐之氏は、その後2017年、肝臓の病ではなく、癌によって亡くなった。そのFacebookは2025年現在まだ残され、多くの親しい人により、いまなお誕生日にメッセージが寄せられている。

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