本

『死の文化史』

ホンとの本

『死の文化史』
D.J.デイヴィス
森泉弘次訳
教文館
\1890
2007.12.

 重いテーマである。誰もが一度は辿り、一度きりであるという、その「死」。それは恐怖であれ、希望であれ、何らかの了解に基づいているとも言える。それは他者のものとしてのみ観察できる。自己のものとして体験した後には、思考や了解というものを自分は経験できないことになるから、自己にとり、「死」は常に未来的である。未了解のものに留まる。だから、それは不安でもあり、他方希望という姿に変えることともなる。
 それは私にとり、すべてのテーマであったともいえる。哲学にその解答を求めたのは確かである。しかしそこには見いだせず、私は神の前に引きずり出された。そこで救い主イエス・キリストに出会ったのである。
 死の問題について、様々な知恵がある。生きてきた人の数だけあるとも言ってよい。また、現在生きている者の中にも、これを手段として利用している輩がいる。権力者はしばしばそういう立場に立っている。こうした問題点もさることながら、適切な一定の歴史を描いてくれる本があると、ありがたいと思った。そのような本が、かつてないわけではなかったが、1973年のものであった。さらに動いていく現代という時代を踏まえて、2005年に著されたのが、この問題についてのエキスパートたる著者である。というのも、この十年二十年の中で、死に対する思想や態度が、世界で大きく変わってきているとそこでは告げられているからである。
 著者は、イギリスの神学者。つまり、キリスト教をベースに思索を構築することができる。しかし、それを護教的に用いるのではなく、可能なかぎり冷静に学的に述べるだけの才覚がこの本に十分発揮されていることは、読めばどなたもお分かりになれるだろうと思う。逆に、神学者であるからこそ、近年の信仰離れたる精神的な領域の事柄が、鮮明に浮かび上がってくるのである。
 イギリスという、ヨーロッパの大陸とはまた違うが、英語を用いアメリカへと流れるものを所有する国において、アメリカとは決定的に違っている宗教の問題や、キリスト教信仰のあり方などが、こんなにも明確に伝えられてくるものだということを私は学んだ。また、教会出席者が減っているとか、商業主義が入っているとか、イギリスをはじめとするヨーロッパのキリスト教の現状について、噂のように聞こえていたものが、具体的にどのようになっているのか、実際現場ではどうなっているのか、それが奇しくもこの本から、どんどん伝わってくるのである。
 死に対する姿勢は、まさに信仰の核心を貫いているといえよう。信仰が現世利益に限定されていく有様こそ、まさに近年の商業主義や現実主義に染まった世界を表している。さらに著者は、環境問題を大きな要因として見ているように思われる。死に対して環境問題的配慮が、古来の信仰的な死の受け容れを大きく変容されているのである、というのだ。
 ことさらに何かの論を押しつけようというふうではない。何かを考える契機となるように、様々な問題を挙げ、その由来や問題点また現状をコンパクトにまとめている観がある。私たちは、ここから議論を始めていくことができるのではないか。いや、始めなければいけないのではないか。
 しかし、私の知恵が足りないのか、それとも訳者の具合なのか、はたはた原著者がそうであるのか、この日本語訳の文そのものが、なかなか読みづらい気がした。私もそうだが、前置きを多様にもってくると、どこからが本筋の論旨であるのかが分かりづらい。また、すっきりした文をつなぐというのでなく、関係詞や分詞で長く続く原文を日本語でも忠実に取り扱うと、意味がすぐには読みとりづらいような形の文として提示される可能性がある。大筋が分かりにくい場合もあったから、やはり論旨は誰が見ても明快であったほうがいい。
 索引や訳注も丁寧で、いろいろな事柄に必要な知識と共に触れることができる。日本のクリスチャンは、もっとこうした海外の状況に関心をもっておいたほうがよいようにも思う。日本という伝統文化や異質な空気だからキリスト教宣教がうまくいかないのだ、と思い込むのは危険である。同時的に、世界で信仰の事柄が変化しているのだ。その中で、日本の教会だけが問題を抱え込んでいるわけでないことも知ると、一歩踏み出す希望が与えられるかもしれない。
 読み急がず、じっくり少しずつでも、この本を開いていくといい。自分の人生をも当然考えさせる内容となっている。決して、キリスト教信仰を宣伝するためのものではないから、哲学的にこれを考えたい学生も、自分をとりまくすべてのものについての視点が伴うことを知ると、有意義な時を得るかもしれないと思った。




Takapan
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