本

『信仰と経験』

ホンとの本

『信仰と経験』
廣石望
新教出版社
\2835
2011.11.

 タイトルに惹かれて購入した。もとより、その著者の考えについては、インターネットで少しばかり調べてからのことだが、大学教授であると共に副牧師としても活動しているとあり、メッセージ性も期待して読みたいと思った。
 福音は、対象化されるためにあるのではない。いや、そのようにして研究する人がいることは大変助かるし、貴重である。学問的にそれを徹底的に調べるということをして戴くお陰で、安心して聖書に対することもできるのだ。テキスト自体がいい加減で自分の思いこみのままに読んでいくということは大変危険である。中には、自分たちの教団の教えに都合のよいように聖書なるテキストを決めているグループもあるわけだから、そうなると神が一番でなく自分たちが一番となっていくことになる。そしてえてして人間は、そのような錯綜に気づかない。
 こうした事情があるにも拘わらず、私たちは神の前に「ひとり」であるとき、私という「ひとり」が、ひとりの神と向かい合い、そこに人格的な交わりが生じるという、信仰生活の大前提が確かに存在する。これなく、知識として聖書を操りつつも自分が神と向かい合っていないとあれば、携帯電話で話に夢中で目の前の人にぶつかるようなものである。逃避しているだけであり、その場に生きているとは言えなくなる。
 つまり、そうした人格(神についてもそのように呼ぶ)のぶつかり合いのことを「経験」と称するとすれば、まさに信仰は経験に基づき、また経験という背景あるいは焦点のもとで、培われるものであるはずである。神との出会いの体験なしに、信仰だなどと口走ってはいけないことになる。悲しいことに、現行の「牧師」と自称する人の中には、この経験なしに、口先だけで「教え」を話している人がいる。私も目の前にそのような人がいたことがある。しかしこれは、神との出会いの体験をもつ人から見れば、はっきり「違う」タイプの人間であることが分かる。何らかの研究成果をもたらしてくれる人としての業績があるならば、その人はそれはそれでよいと思うが、魂の牧会というものは、こんな人にはできない。不可能だ。それを許してしまう牧師制度というものに対して、私はもう偽物を見抜く目をもち信徒が自衛しなければならないとしか言えない現状を認めざるをえないのである。
 さて、この本についてのご紹介が薄くなった。これはいくつかの講義からまとめられたものであり、その意味でどこからでも読めるものである。興味のあるところから読者は読めばよいと思うが、可能ならばやはり最初から読めばよいだろうと思う。編集もおそらくその意味で並べてあると思うからだ。私も、普通に読んで自然に読めた。講義そのままだろうか、敬体で書かれていて、まるで礼拝説教を聞いているような自然な感覚で読める。ひとつには、対象化して自分の本質と無縁な記述だという雰囲気を外すためにそのようにしたのではないかと私は勝手に思っている。敬体のほうが、自然と向かい合う雰囲気を醸しやすいのだ。
 副牧師として教会教育に携わっている立場でもあるからと言って、聖書を文字通りに読むとは限らない。この本を見ていくと、最新の研究を取り入れたり、ある場所でリベラリズムの色彩濃く、それが当然のことのように語られているところもある。海外の研究者の成果をそのまま批判なしに取り入れている部分も感じられる。聖書そのもの、正文批判をとことんやるというタイプではない。が、教養は確かに豊かである。何よりも、そこに「経験」を重視した聖書との向かい合いというものがある。だから、どのようなテーマで迫ろうとも、そこでの語りには「いのち」が感じられる。それは著者の体験であるから、読者によっては賛同しかねることも多々あろうかと思う。自分の信仰とはタイプが違いすぎる、と近寄りがたい人もいるかもしれない。それでも、イエスという共通の人格と出会ったことのある読者であるならば、何かしら感じるところは多いのではないかと思う。
 ただ、そこは大学教授であり、ひとつの論文である。用語の使い方や概念展開が、一般の方には分かりづらい場面が少なからずある。私は哲学書を読む訓練を受けているので、抽象的に書かれてもそれなりに読み進むことに抵抗はないが、そうでない方々には、何を言っているか分からないということもあろうかと思う。これを機会に、いくらかの抽象的思考にも慣れてみるとよろしいのだが、なかなかそのような暇はとれないだろう。コツは、できるだけ一つの具体的な事例を想定してあてはめてみることである。非常に抽象的な語の羅列の場合には、できるかぎり具体的な事例をそこに重ねて理解していくのである。具体的な把握に成功すれば、抽象語が何を言っているのかははっきりする。実のところ、筆者もまた、そのようにして具体事例からかたち(象)をぬ(抽)いて、書き留めているのであるから。
 全般的に、言葉の使用の背後にある経験的事実を読み解こうとする傾向を感じる。言葉はひとつの経験を示す。人は経験を何かしら言語という表現方式にまとめあげて表すしかない。その言葉の背後にあった経験に共通感覚をもてるかどうかが、読み解くということの一つの方法である。聖書の場合、限られた、しかし殆ど決定されたこの言葉の中に、イエスとの出会いと自分が変えられていく体験をもつということを、歴史の中で無数の信徒が味わってきた。今また私も、その輪の中に加えてもらいたいと願うものである。この本は、それをもたらしてくれる。
 度々話をまとめ、また次にどう進むかの針路を示すなど、ひじょうに読み進みやすい方向性が工夫されている。抽象語に抵抗の少ない方には、一度経験してもらいたい本だと言える。




Takapan
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