本

『新宿の猫』

ホンとの本

『新宿の猫』
ドリアン助川
ポプラ社
\1500+
2019.1.

 小説の紹介は気を使う。ネタバレを起こしてはいけない。しかし内容を知らせずして何が本の感想文となるのか。
 ただ、いまこれを読み終わったばかりで、精神が不安定である。電車の中で涙を流していた。後半の展開に頭の中がぐるぐると掻き回されていた。前半の穏やかなムードがすっかり乱されてしまい、胸ぐらを掴まれて揺さぶられ続けて、鼻血を出しているような心地だ。
 映画「あん」のときには、小説を知らずに、映画をいきなり観た。なんて心をえぐるものなのだろうと思い、独特の雰囲気を感じた。というより、その思いをどのように言葉にしてよいか、分からなかった。
 確かに私は、文学を言葉にして評する能力をもたない。要するに、何と言ってよいか分からない。論理や倫理を背景にすることであれば、ある程度のネタは分かっているので、冷静に構えて叙述することが可能なのだが、自分の心がとろけるようなときに、それを言葉にする術を知らないというわけなのだ。
 本の帯なら、ネタバレまでいかないから引用してよいだろうか。
構成作家の卵である「ボク」は、明日が見えない闇のなかでもがいていた。
そんなある夜、ぶらりと入った新宿の小さな居酒屋で、野良猫をかわいがる「夢ちゃん」という女性店員に出会う。
客には不愛想だが不思議な優しさを秘めた夢ちゃんに「ボク」はしだいに惹かれていく。
ふたりは猫についての秘密を分け合い、大切な約束をするのだが――。
冬空に瞬く名もなき星のような物語。
傷を負ったのはあなただけじゃない。
 これでは確かに何もバラしていない。ただ、これに付け加えて少しだけバラしてみようかと思う。というのは、私が何故この本を読む気になったか、という理由である。ドリアン助川さんのインタビュー記事があった。それは本書発行の半年後くらいであったので、この本の話題ではない。そこで彼のプロフィールが簡単に書かれてあったのだかだ、そこに最新の本書の名があった。「色弱差別を主題にした小説『新宿の猫』など著書多数。」ここに心が留められたのだ。身近に、色弱を抱えている人がいる。わざわざそれを表看板に出して紹介された本である。主題とまで言っている。そしてもちろんあの「あん」である。これはどうしても読みたいと思った。幸い、図書館にあったのですぐに借りに行った、というわけである。
 小説を読むのは私は苦手な部類に入る。どうしても見落としがあり、話の流れについていけなかったり、人物像が錯綜してすんなり分からなくなってくるのである。自分が情けなくなるのだが、この物語については違った。なんでこんなに場面が見えるかのように読み進めていけるのだろうと不思議に思った。そうだ。これはまるで映画を観ているかのような感覚で進んでいくのだ。そしてこのマッチ感覚は、私の側の理由というよりもおそらく、ストーリー展開も、描写も、書いた方が巧いのだ。読者に無理なく流れ入っていくような言葉と展開がそこにあるからだろうと思った。
 著者の体験を描いた小説ではないのだが、何かしら体験に基づく部分がある故に、描写や感覚にリアリティがあるというせいもあるだろう。だがやはりそれだけではない。著者が東洋哲学を学んでいたことは寡聞にして知らなかった。ラジオのパーソナリティをされていた時にはその活躍を知っていたが、きっと語りも知的で、しかも情を捕らえたものだったのだろう。居酒屋についても非常にお詳しいようなので、店の風景は本当にその場に自分が連れて行かれたような気にもなる。いやはや、楽しませてもらった。これもきっと映画になると思うのだが。
 いま「生きづらさ」という言葉が、ちょっとした流行である。思うようにいかない、何かをしようにも先立つものもないし、人との衝突の中で立場も辛い。生きていくのがしんどいし、それを誰かに言うことも難しい。ひきこもりはまた一つの形だが、生きていくのがつらいという、聞き流してはならないような言葉が、普通に形容される空気が一面に漂っているようなのだ。この物語は、まさにそういうところに光が当てられる。ある意味で苦しい思いで読んでいく。もしかしたら、と明るい兆しもあるが、それも束の間、物語は急展開する。
 タイトルのとおり、猫が全編に登場する。私は猫と暮らしていたことがある。ペットではない。野生の猫がアパート一階の私のところに勝手にやってくるのだ。アパートのサッシの向こうを猫が通行する。煮干しなどを置いておくと、猫がやってくる。こちらが敵でないと知ると、私になつくものもでてくる。部屋の中にも入ってくるし、私の布団の上で寝るのもいた。ついにコタツの中で子を産んだ。白猫の金銀と呼ばれる目をもった子もいた。片目が黄色で片目が青であった。珍しいのだというが、実はこの物語にその猫が登場する。そして、居酒屋の窓から見えるところを猫が通行する、それが物語展開の中心にくるルーチンなのだ。こういうわけで、猫について知る私だからこそ、すらすらと読めたのかもしれないと思い当たるようになった。猫の描写は、ここに描かれていないところまでもっと私なら書くことができる。もちろん、本書ではそういうことばかり描く必要がないから書いていないのだろうけれども。
 私もこうして以前のことを思い出せば、傷ついたり傷つけられたりしたことがあることを思い起こす。過ぎ去ればすべて美しいというのは、傷つけたことを勝手に許してしまう傲慢なのかもしれない。しかし、あのときうまくゆかなかったことは、決して消化不良な宙ぶらりんになっているのではなくて、その形でしかありえなかったひとつの真実であるはずなのだ。どこかもやもやとしながらも、それでよかったのだと思い、あの出来事が、きっと辛かったいろいろなことの狭間で光となり、見上げれば永遠のきらめきのように遠くに輝いている。
 物語が余韻として残す風景は、私の心の中にある風景と、ぴったり重なっていたかもしれない。そして、私もまた詩を書く者だということ、これも大きかった。いやぁ、心の的に当たった。




Takapan
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