本

『死ねない時代の哲学』

ホンとの本

『死ねない時代の哲学』
村上陽一郎
文春新書1252
\850+
2020.2.

 タイミングが悪いと言えば悪い。カバーのそでの部分に、いきなりこう書いてある。「細菌やウイルスに突然、命を奪われる時代が終わり、有数の長寿社会が実現したいま、歴史上はじめて、一人ひとりが自分の人生の終わり方を考えざるをえなくなった。」
 発行された直後、新型コロナウイルスの感染が世界を襲い、パンデミックという認識がなされた。確かに長寿の方を中心にだが、犠牲者が世界中に満ちていく様を私たちはまざまざと見たのだ。見えない恐怖と闘うその世の中に、「死ねない時代」だと挑みかかってしまったのである。
 もちろん、主旨は分かる。そこで、この社会問題には触れることなく、純粋に著者の主張について耳を傾けることとしよう。科学史に詳しく、科学哲学者として著名な筆者が、新書といういま関心のある話題に対するオピニオンを提供する場で、医療と人生観の狭間に、必要な眼差しを投げかけるものとなった。
 新書としては、非常に読みやすい部類に入るだろうと思う。文字の大きさもそうだが、話の内容が、同じひとつのところをぐるぐる回っているかのようで、筋道がぶれないからである。つまりは結論と称しているものも、普通に読んでいれば誰でももう分かっているものである。一定の見解についても、くどいと感じる人がいるかもしれないくらいに、途中で幾度も述べられているので、著者の言いたいことは恐らく誤解なく十分に伝わっていく本となっているのだろうと思う。
 細かく味わえば、専門的な領域のことも触れられている、つまり歴史の中の細かな事例や広い見識へとつながるような知識が随所で顔を出すのであるが、本筋については非常に伝わりやすい形になっていると言えるだろうと思う。何が言いたいかというと、これだけ重い問題ではあるのだが、気軽にどんどん読んで戴きたいということだ。
 歴史の中で比較すると、現代は死について十分考慮する時間が与えられた環境となっていると言えよう。医療設備も整い、栄養状態もよくなった。なにより私たちの社会は、長寿社会となり、高齢化社会であることが了解されている。戦争などでの死を決意しなければならない逼迫した状況にあるとも言えない。肉体の健康については、配慮の行きとどいた時代になっているのである。
 著者は、しかし通例西洋哲学と科学の分野に身を置いている。いったいこの日本の社会のメンタルな環境はどうなっているだろうか。というと、日本の宗教観というものを説く道も出てくるものなのだが、新書ひとつでそこまで深入りすることは難しい。また、その必要も恐らくない。「日本人の死生観」という章では、かつての古代思想も踏まえつつ、私たちの死生観がどのように形成されてきた経緯があるのか、そして現にどうであるか、とくに例えば病院で産まれ死ぬということが圧倒的に多くなった現代において、死生観はどう影響するだろうかということを考慮している。
 というのは、苦しみを避けるためにむしろ死を選ぶというあり方が問われることがあるからである。かつては安楽死という言葉だけで論じられていたが、その中にはいくつもの問題が潜んでいる。積極的なものと消極的なものとがまず分かれるし、事情や背景によっていろいろな場合が想定される。これは近年では「尊厳死」という名で考えられることが多い。欧米ではこの考え方が市民権をもちつつあるが、日本ではそうは簡単にいかない事情がある。本書のひとつの論点はそこにある。それを変えようとまでは言わないが、筆者は尊厳死を叶える方向で動けばよいと願っていることは明らかだ。タイトルの「死ねない」という言葉は、この点に焦点をもっているはずだ。つまり、患者が自分で死にたい、この苦しみから逃れたい、と願っても、現在の医療の主流は、自殺を幇助するかのようなそういう行為ができにくい環境にあるわけで、それはとりもなおさず患者にとっては「死ねない」時代なのだ、というわけである。
 しかし、自己決定権という問題がその根底にあるとはいえ、患者自身が自己で決定できないときに、家族などの意志がどう働くのか、という難しい問題もある。また、これはシビアな話だが、病院の経済事情ということも無視するわけにはゆかない。経営上、治療をするというのは、病院にとりありがたいことなのだ。この点も、現実的な事柄として、様々な問題を考える上で、著者は考慮のために差しはさむ要素である。もちろんこれは必要なことである。お金のことを取り上げるのは人生観に関係がない、などと言うことはやはりできないものであろう。この現実性が、著者の提言をまたリアルなものとしていく、とも言える。
 平易な言葉をなるべく使い、自分の死を考えることができる時代となったことをある意味で感謝しつつ、しかしその中で死をどう受け容れていくか、決定していくかということについて、自ら死を決めることの社会的な難しさについて様々な角度から斬り込んでいる。読者に考えさせるために、よい材料を提供していると言えるだろう。その上で、著者自身の考えも最後には明確に、誤解のないようにちゃんと述べている。カトリック信徒である自分の信仰が、カトリック教会の思想に抵触することを認めつつも、寛容な社会を期待することで、尊厳死について考えてもらいたいと訴えている。やまゆり園の事件も、このことには影響を与えている。他方、たった一度ではあるが、イエスが自殺を禁じていることを述べてはいないということも触れつつ、それでもカトリック教会としては……というためらいも懐きながら、日本社会での合意を求める態度を示すのである。
 最後にある「我々一人一人が、それぞれの解を見出すために、弁えておくべき幾つかの要素を示すことはできたと、僅か乍らの自負の弁で、このあとがきを締め括りたい」という言葉を以て、あとは私たちにバトンが渡されたものとすべきであろう。本が出たばかりの世界は、ウイルスを相手に、なかなかこの問題が視野に入ってこないだろうとは思うけれども。




Takapan
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