本

『新聞は生き残れるか』

ホンとの本

『新聞は生き残れるか』
中馬清福
岩波新書833
\700
2003.4

 新聞は危機を迎えている。
 テレビやインターネットの情報に遅れをとりつつ、紙資源を浪費するイメージもあり、購読部数も今後減少が予想されている。今ある新聞社が、互いに客を取り合っているだけなのだ。今後地方新聞社から始まって、新聞社の淘汰が行われるであろう。
 新しい生活スタイルには新聞は不要となりつつあり、かつてのようなステイタスもなくなってきた。新聞が権力に対抗する構図として市民の味方なる立場が絶対だった時代は過去のものとなり、いまや人権上の問題からむしろ市民に敵対する図式にさえ置かれるものと捉えられているせいもあるという。事件の関係者が、新聞こそ死刑にしてほしい、と叫んだエピソードさえある。
 また、巨大になった全国紙が、多様化した要求に対して最大公約数を提供しなければならなくなったとはいえ、堅い政治の記事はゴシップ的なものが多くなり、若者の目を引くための話題作りも欠かせなくなってきた。現場へ出ることなしに、ネットの資料だけで記事を書くこともあるとなると、さらに新聞らしさが失われていくかもしれない。
 筆者は、朝日新聞社で政治部員から論説委員、編集などを歴任し、現在も顧問として活躍している。新聞社の酸いも甘いもかみ分けた人間として、新聞の将来を憂い、またそこに活路を見いだすために、近年の新聞のあり方を冷静に分析する。この分析だけでも、読むに値する内容となっている。見かけばかりのネット情報のきらびやかさを語るのではなく、人が生活するために、情報をどのように受け、利用していくかという大切な事柄に触れるからである。
 流行りの「リテラシー」という言葉は使われていないが、この本は、情報のマナー・トリセツ(取扱説明書)としてのリテラシーに対する重要な提言として受け止めることもできよう。
 私もこの歳になって、ようやく、各新聞社の立場や視野・地平が理解できるようになった。世間でそう言われているから右だ、左だ、というのでなく、私の目から見て、記者はここからこの世界を見ている、というふうな捉え方ができるようになってきたのである。その点で、単純に新聞にあるから信じようという気にもなれないし、新聞社の意見に従おうという気にもなれない。昔は、「新聞に書いてある」と言えば、どんな議論も方が付いたらしいが、今はそれでは危ないことが多々ある。
 だがこうした捉え方も、曲がりなりにも新聞を今日まで読んできたという前提があってのこと。若い世代から、新聞を読まない――読めない?――人々が増えていくなら、もはや新聞とは云々という議論さえ、成立しなくなるときがくるかもしれない。新聞はいつまでもつのか、と案ずる声も業界から多いという。
 筆者は、「人びとに『考える喜び』をあたえる媒体づくり」を急ぐよう提言するものの、これからのあり方に明確な指針をもつことができているわけではない。あくまでも新聞社内の立場からの視線なので、執筆段階でも、岩波書店の編集者から思いがけない考え方をヒントにしたりしている。やはり、結論は出ない。新聞は、どこへ行こうとするのか。
 ただ、私見からすると筆者の勘違いもあると思う。124ページから始まる内容で、婚姻届を夜中に出しに行った男女が、市役所の嘱託職員が酔っぱらっていたために怒ったという「事件」に対して、婚姻届を夜中に出す必要はない、という見解で、夜中の婚姻届を受理するために職員を配置するのは税金の無駄遣いだ、と論じているくだりがある。だが、この「事件」は嘱託職員の問題であり、夜中に届けを出しにきた男女の問題ではない。さらに、婚姻届というものは、出生届と異なり、過去に遡って日付を設定できない以上、四六時中受け付けなければならない性質のものなのである。私も、日曜日の午後に教会で挙式し、もろもろのスケジュールを経て、日曜日の、それも夜中と言ってよいような時刻に婚姻届を出しに行った。その日でなければならなかった。私の誕生日だったからである。筆者は婚姻届を提出する日と、挙式あるいは披露宴といったものを行う日とは、別の日であるという前提に立っているか、または、結婚記念日などいつでもよく、平日のほかに結婚することは許されない、と考えているかのようである。また、何かの事情で突然結婚して届を出すといった事態も想定していない。
 新聞というものは、このように、しょせん視野の限られた「人間」が作っているものである。私にとってみれば、その点で「聖書」とは異なる。読者も、このことを弁えて新聞を読む必要があり、その限りにおいて、新聞のある生活は有意義なものとなることだろう。




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